九百二十八(その二) 日中親善のために南京事件を再検証

平成二十九丁酉年
一月二十日(金)
南京事件は日本側の過剰反応のため、日中交流に悪影響を与へてきた。一番目は南京事件が無かったとするもので、二番目は卑屈になったりその反動で尊大になったりする。三番目に日本と中国を西洋化する目的で南京事件や現在の中国での少数民族問題を大げさに取り上げる社会破壊拝西洋新自由主義戦没者冒涜反日パンフレット(自称朝日新聞)のやうな立場もある。
結論として、BC級戦犯として処刑された第六師団長谷寿夫は悪質だが、西洋が近代になって数を重ねる戦争の中で作ったルールをアジアにそのまま持ち込んだため無理を生じたこと、日露戦争後に(或いは日英同盟後に)日本は傲慢になったこと、軍組織の官僚化が谷寿夫のやうな悪質な幹部を放置したことがあげられる。
以上は仮説なので、幾多の書籍を調べ南京事件を再検証し、日中の交流を未来志向にしたいと願ふ。

一月二十六日(木)
アパホテルの客室に備へられた南京事件が無かったとする書籍を巡り日本と中国で騒ぎになってゐる。私のこのホームページはたまたま興亜観音のパンフレットを見つけた続編なので、騒ぎの発生する前から書く予定だった。
アパホテルは昨年二泊したが、従業員への教育が行き届いた感じのよいホテルだった。そのときこの書籍も読んだが、内容はまったく記憶にない。騒ぎになって読んだことを思ひ出した。
かつて南京事件が無かったと主張する人は明らかに日中親善を妨害する意図を持って発言した。しかし社会党が消滅し二十年が経過し、日本の平和運動が変質してから、社会を破壊、日本を西洋化する目的で南京事件をことさら大きく騒ぎ立てる人たちが現れた。慰安婦強制捏造記事事件の社会破壊拝西洋反日パンフレットもその一つだ。
それへの反動と云ふことで目くじらを立てるほどの問題ではない。現に私は南京事件はあったとする立場だが、書籍を読んだことすら忘れてゐた。
更に重要なことは、言論には言論で批判しなくてはいけない。サイバー攻撃は論外だが、主張したことを批判するのではなく、主張内容を批判すべきだ。

一月二十九日(日) 「松井石根と南京事件の真実」
早坂隆「松井石根と南京事件の真実」は読み始めてすぐによくない書籍だと判る。張作霖爆殺事件について
日本の陸軍内の強硬派が企図した謀略であるとされる。ただ、ソ連陸軍特務機関による犯行説もあるなど、事件の実相には未だ謎の部分が多い。
張作霖爆殺事件が日本軍の謀略であることは当時から常識だった。しかし云ふ訳に行かないから満州某重大事件と称した。先ほどの一文でこの書籍は仮に他の部分が正しいとしても、全体が疑ひの目で見られてしまふ。この本が唯一役に立つのは松井の父親が水戸学に通じたため
石根が中国という国に親和性を抱いたのは、この父からの感化と言える。
親中派の松井が日華事変では拡大派なのは解せないが、蒋介石はそれだけ狭量の人間だったのだらう。

一月三十一日(火) 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その一
次に早瀬利之「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」を読んだ。松井が中国の要人と会談し蒋介石と反蒋介石派を融和しようとしたことがまづ書いてあるが、首相や外相ではない予備役の陸軍大将が彼らと会っても、賢人ぶるその態度に反感を持たれるだけだ。
その松井が新設された上海派遣軍司令官に任命された。しかし拡大派の松井の希望五個師団とは裏腹に参謀本部第一部長の石原莞爾は二個師団を付けただけだった。上海では死傷者が多く、石原が左遷されたあと後任の第一部長は上海派遣軍とは別に第十軍を送る。松井と中央との駆け引きの末に松井は方面軍司令官になるが第十軍が傘下に入るのは上陸後になる。そのため第十軍の暴走が起きる。ここまでかなり松井に偏った内容ではあるが、南京事件をあったとした上でのことなので、公平な記述と云へる。
この本で判ることは、蒋介石は狭量なのではなく権力欲が異常なのだらう。だから松井による反対派への説得は蒋介石にしてみれば迷惑な話だった。松井は自分の意見を聞き入れなかった蒋介石を逆恨みして、これを敗北させることが中国のためだと短絡した。

二月一日(水) 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その二
ニューヨークタイムズのT・ダーデイン記者が、
「土曜日(十一日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪も拡がっていた。略奪の目的が食糧と補給物質の獲得にあることは明らかであった。(以下略)」
「城外の支那軍総崩れとなり、(中略)市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して、彼が指揮する三十六師に命じ、これら敗残兵を片っぱしから銃殺するも、大勢如何ともするあたわず、唐生智は憲兵と共に夜八時ごろ、どこともなく落ちのぶ。敗残兵の方か、略奪なさざるはなく(以下略)」(一外国人の日記、十二日、東日)
あるいは
ダーデイン記者は、この死体の山を「高さ六フィートの塚をなしていた」と報道したが、その原因が日本軍の下関門占領による大量虐殺と誤認してのことだった。
実際に日本軍が南京城に入ったのは十三日の午後おそくで、 このことは、ドイツ大使館が目撃している。それ以前の放火や略奪は全て中国敗残兵たちの仕業であることが、のちに判明する。
これらの文章を読めば、誰もが南京事件は無かったと信じてしまふ。私がアパホテルの経営者の本に同情的なのもそれが理由だ。しかし南京事件があったのは事実で、それは私が今から四十年以上前に読んだ今村均の本に書いてあった。今村は当時蘭印(オランダ領東インド)と呼ばれたインドネシアへの第16軍司令官で、戦後はスカルノ大統領が親日を貫くなど唯一大東亜共栄圏の成功例だった。その今村は谷寿夫が士官学校或いは陸軍大学の教官だったとき、略奪や強姦は士気を高めると発言したので、これは納得できないと感じ、事実その後、谷は南京事件を起こしてBC級戦犯として死刑になったのは当然だと今村は感想を書いた。
日本がすべきは谷のやうな悪質な師団長がなぜ発生したかを検討することで、南京事件が無かっただとか、反日パンフレットのやうにこの際日本と中国を西洋化してしまはうとすることではない。

二月一日(水) 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その三
この書籍には有益な情報もある。
松井夫婦には子供がなく、私心がないことからくるものかも知れない。松井は東條が陸軍大臣になったとき、「東條には私心がある」と指摘した。
先の敗戦は東條の責任、南京事件は谷寿夫の責任として二人を切り離すことが日本には必要だ。二人をかばふから、国内に反日勢力(日本死ねの民進党や反日パンフレット)が出てくる。
この本には、南京攻略の後に、陸軍や外務省の高官が次々と調査に訪れたこと、松井が方面軍司令官を解任されたあと凱旋もなく寂しく帰国したことが書かれ、南京事件があったことを暗示する。しかし松井は軍紀厳守を厳しく命令したことが何回も書かれるから、多くの読者は南京事件は無かったと思ってしまふだらう。
南京事件があったことを暗示させる文章を挙げれば
当時、教育総監だった畑俊六は、のちに松井石根と交代して上海に入るが、(中略)畑は陸軍大臣にこう述べている。
「--まことに忌まわしき行為も少なからざるようなれば、この際、召集予後備役者を内地に帰しめ、(中略)上海方面にある松井大将も現役をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長らの招集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。(以下略)」

同じやうに参謀本部河辺第二課長は
「(前略)南京あたりで変なことができたあとでありますから、その悪い連中を帰して独立混成旅団が四つか五つか出来てくるから、そうしたらこれらを入れ替えて、新鮮な、はっきりした軍隊を八月までに作り直すのだ、というつもりで(以下略)」

ただしこの本は、「日本兵が婦女を連れ出し、金陵大学からピアノを持ち出したり、一月二十四日は天野中尉(中隊長)らによる米人経営の農具店乱入と婦女連行後、強姦するという事件が起きたり」とあるから末端による散発的な事件だと読者は思ってしまふ。しかし散発的な事件で軍司令官、方面軍司令官まで解任されることはあり得ない。

二月四日(土) 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その四
BC級戦犯として処刑されたのは第六師団長の谷寿夫だが、第十六師団長の中島今朝吾について松井は上海派遣軍の五十日の慰霊祭の前夜に朝香宮司令官から
第十六師団による軍紀風紀問題が報告され、怒りを覚えている。六日の日記には、
「やはり第十六師団長以下の言動よろしからざるに起因するもの多き旨語られ、まったく従来予の観察と同様なり」とある。

翌日の慰霊祭で、同盟通信の取材者は
「戦死した日本軍将兵追悼式後の厳粛な雰囲気の中で、派遣軍総司令官松井石根大将は、本日、部下指揮官に対し、帝国陸軍の威信を高めるため、各自の指揮下部隊における軍紀を引き締めるよう訓示した(以下略)」
また飯沼守日記には、
「一・三〇より派遣軍慰霊祭、終わって松井司令官より隊長全部に対してつぎの要旨の訓示あり。
南京入場のときは誇らしい気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それは、この五十日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹(た)てたる功を半減するに至りたればなり。何をもってこの英霊に見えんやというにあり」
と松井が述べたと記している。
また松本重治は、このときの松井の訓示を、「日本陸軍の歴史上未曾有と言われる将軍の訓辞」と表現して、松井の胸中を、「日本軍の報道された軍紀違反について、不利なコメントが繰り返される事態に直面して行なわれたもの」と評価している。

ピアノを盗んだり米人経営店に押し入ったなどが散発的に起きたなら、「日本陸軍の歴史上未曾有と言われる将軍の訓辞」を述べる筈がない。しかし読者はそこまで考へないから、南京事件は散発的だったと思ってしまふ。中島今朝吾についてウィキペディアは
第16師団長として南京攻略戦に参加した時の日記には、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて「処理する予定」「そのためには大きな濠を要する」との記述がある。エスカレートしていた南京での掠奪に、師団長であった中島自身も加わり、日記には「もし自分の管轄範囲内で物を探すのであれば好きにさせ、少なくとも戦場心理の表現として、恐らく道徳に悖るとは考えないだろう。しかし他人の勢力範囲内に入りしかも司令部の標識が打ち付けられている建物で、平気で盗みを働くのはあまりにも行き過ぎている」と書いている。

中島は昭和二十年十月に病死した。生きてゐればBC級戦犯になったかも知れない。

二月四日(土)その二 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その五
第六師団についてこの本は下関事件に触れる。
第六師団からの電話を受けたのは、方面軍参謀の長勇である。「十三万の支那人が対岸の浦口に渡れずに残った。どうするか」との電話に、長勇は、
「ヤッチマエ!」と言った。
この電話のやりとりを、角副官が聞いて(中略)松井司令官室にかけ込んで報告している。
松井は長勇に、
「十三万人の支那人を殺すことは許さぬ。ただちに解放せよ。」と命令した。長勇が、
「この中には、軍人も混ざっております」と言うと、松井は、
「軍人がいてもかまわぬ。かえって軍紀がよくなっていいだろう」
と言っている。長勇は「ハイ」と返事したのを、角副官はそばにいて聞いている。

著者の早瀬さんは、電話での人数について角は電話に出ていないから聞き違ひかも知れないとしてゐる。編集段階で人数に横槍が入ったのかも知れない。少数の軍人が混ざると多数の市民を殺す発想に驚く。
松井方面軍司令官が(中略)下関や挹江(ゆうこう)付近を視察したのは、十二月二十一日朝十時である。下関や挹江付近及び市内視察は十八日に予定していた。しかし、角は「治安が悪く警備に責任がもてない」と偽って、外に出さなかった。本当は市内に沢山の死体が遺棄されていて、松井に見せたくなかったのである。
二十一日になって、業をにやした松井はついに怒り、(中略)やむなく車を出して乗せるが、角はなるべく死体が見えない位置に座って同行した。
それでも死体が見える。そのとき、角は傍にいる松井方面軍司令官のようすに気づいた。彼は遺稿集の中で、
「総司令官は、モノを言わず、ただ泣いておられた。下克上の思想が、このような事態になったと思う」
と書いている。


二月四日(土)その三 「将軍の真実 南京事件-松井石根人物伝」その六
松井は退役の後、熱海で余生を送った。
このころ、松井は伊豆山に興亜観音を建設するため、私財を投げうって奔走していた。その折り、名古屋の幼年学校で講演している。(中略)一時間ほど講演したが、その中で、「皇軍の武威は四百余州あまねども、武徳いまだ成らず、皇軍士道は地に落ちたり」と、士道にはずれた昨今の軍部を批判している。まだ十四、五歳の少年たちの頭の中では、(中略)「大将はときに首を振る癖がありました。講演しているときの中講堂の食う気は、暗い雰囲気でした」と語っている。やがて、松井大将が講堂から去ると、学校側は、松井の痛烈な批判を気にしてか、「今日の話は、忘れろ」
と、静かに、制した。

この書籍は最初の部分で松井を誉めるあまり、南京事件の遠因を上海で日本側に多数の犠牲者を出したことを挙げ、石原莞爾を批判した。しかしここでは続けて
同じく軍部を批判した者に石原莞爾がいる。第十六師団長になった石原は京都大学で講演し(中略)
「敵は中国人ではない、日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取って立った東條、梅津(前略、支那事変勃発のとき中将で陸軍次官、太平洋戦争終戦のとき大将で参謀総長)の輩こそ、日本の敵である。同時に彼らは世界の敵でもある。彼らこそ銃殺されるべき人物である」
ここでも、京都府知事があわてて、「ただいまのお話は、この場かぎりのお話としてうかがっておきたいと思いますので、諸君もご承知おきください」と注意している。
もっとも、石原は「いや、遠慮はいりません。わたしの意見は、天下に公表して、批判の対象にしてもらいたいと思います」と断言した、という挿話もある。
その石原は、昭和十六年三月、東條陸相によって、予備役に追放された。
松井は退役軍人で、非常勤の内閣参議官にすぎないため、追放されるようなことはなかった。

日本と世界に取り、返す返すも残念なのはこのとき東條と梅津を銃殺にできなかったことだ。日本と米英仏の開戦は石原が追放された九ヵ月後に迫ってゐた。(完)


メニューへ戻る 前へ 次へ