九百二十七 駅構内の操車場(6.品川駅)

平成二十九丁酉年
二月十八日(土) はじめに
品川駅はかつて多数の寝台特急や寝台急行が停泊したため、東海道線や山の手線、京浜東北線の乗客の多くが鉄道に興味の無い人を含めて窓の外を楽しめた。私もこれらの列車を眺めたが、品川駅で一番関心があったのは、横須賀線ホームの海岸寄りの八つ山群線(私がさう呼んで来ただけで、単に八つ山運転室前の六線かも知れない。その理由は三線が貨物の上下本線中線)だった。品鶴線下りの横浜側の分岐を使って八つ山群線と臨時ホームの間で入れ替へを行なふその光景は、全国の主要駅での入れ替へ作業、更にはすべての一般駅での貨車入れ替へ作業そのものだった。
私の記憶は横須賀線のホームが出来た後なので、その前と、更にその前の新幹線が出来る前はどう云ふ配線だったのか知りたいものだと思ってきたが、今回長年の謎を解くことができた。
昭和五十五年頃、鉄道雑誌に品川駅特集が載った。客車操車場を構成する札の辻群線、月見群線、台場群線などの名称とともに、外国の鉄道ターミナル駅は貨物駅と旅客車基地を含めたものがあり、品川駅も該当すると結論付けてゐたことを今でも記憶してゐる。
当時の品川駅は一般扱の貨物は廃止したものの、芝浦市場、紙類倉庫への専用線がある一般駅(旅客と貨物の双方を扱ふ駅)だった。
品川地区再開発のため客車操車場が廃止になり、縮小された電溜線が残った。架線の上に「札1」などと標識があり、数十年前に読んだ記事を思ひ出した。「品川駅 札 月 台」で検索したところ、唯一中国語のページが検索された。
東海道下行本線的電留線(札之辻群線3 - 22號)與洗淨線(白金群線)等在本站內。

「品川駅 札 月」で検索したところ日本語のページも引っ掛かった。それによると「札 白 月」の三つで台場群線は無いやうだ。

二月二十五日(土) 昭和三十六年
昭和三十六年の配線図は東海道新幹線が出来る前で、東海道線下りホームの海岸側は貨物上り、上中、下中、下りの四線と、通路線、xxx(判読不能だが別の配線図から丁の台)郡線が10本でこのうち2から8までは北側が終端、これらが南側で収束する斜めの線と平行に11、12。これらと平行にxxx(判読不能だが別の配線図から台場)群線8本で南側が終端。それと平行に3本でそのうち1つが小口ホーム。それと30度開いて3本半でこのうち1本半はホーム。更に海岸側に専用線、北側に品川機関区。
図が不鮮明なので解読できるのはこれが限度だった。

二月二十六日(日) 昭和三十二年(貨物線、臨時ホーム)
昭和三十二年の手書き配線図によると、東海道下りホームの海岸側は、貨物の上り本線と中線、下りの中線と本線、二つの中線の間に貨物中継ホームがある。貨物は車扱、混載、小口混載とあり、これらは本来きちんと記録すべきだが、私は貨物の知識がないから、誰か詳しい人に期待したい。下り本線の海岸側は通路線と、その隣の一部が機待線。これらは南北双方で集結する。
東海道上りホーム(両側)の隣は西1から3で南側から分岐する。北側は1が上りホームの海岸側(待避線)と両渡り、その先で京浜東北南行から東海道上り本線からを合流の上で合流し、右折は田町電車区へ、直進は通路線へ。通路線は田町電車区の西側を走るので駅構内だと思って来たが電車通路二区と称しその先は西側から電車到着、電車出発1番2番と繋がるから電車区構内らしい。
2は機待線。3は臨時ホームの両側と合流の上で白金群線を右に見る通路線を経て五本の月見群線、二十三本の札の辻群線へ。臨時ホームの海岸側は西引上二とあるから柵があり乗降はできないやうだ。西引上二は前述のやうに直進すると臨時ホームの乗降側と合流し通路線になるが、ホームの途中で海岸側の西引上一に片渡りののち白金群線となる。
白金群線は洗浄線だが田町電車区にも独自に洗浄線があり、数年前まで寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」は電車なのに白金群線で洗浄してゐたことが記憶に残った。

二月二十六日(日)その二 昭和三十二年(品川客車区、本線の渡り線)
高輪群線は二番から七番までで、このうち二番が北側に分岐して品川客車区の検修庫三線、屋外四線になる。検修庫のうち二線は東海道下り本線と平行の北海岸引上線になり行き止まる。この線は列車の窓から錆びた線路が見えて気になる存在だったが検修庫と下り本線の間を走り本線から、そのかなり先で下り本線からの渡りののち、高輪群線海岸側の海岸群線と合流の後に西引上三になる。臨時ホームと下りホームは八の字に開くが西引上三は下りホームと平行する。
北側へ東海道上りから臨時ホームの片側までと、南側へ東海道上りホームの退避線側から貨物下り本線から東海道下り本線へと貨物上り線への渡り線がある。その南側に貨物下り線から貨物上り本線へ/からを経て東海道下りまでと、平行に東海道下り線から上り線への渡りがある。その南側に貨物の下りから上りへの逆方向の渡りがある。この渡りは向きが逆だから入替だけで使用する。八つ山群線から臨時ホームへの客車の授受はまさにこの渡り線だった。

二月二十六日(日)その三 昭和六十一年
列車の窓から見た記憶では、客車区は木造の検修庫は中ががらんとして事業用客車が一両だか留まるだけで、コンクリート製の検修庫が前面にあったやうに思ふ。あと客車区も鉄道雑誌の記事だと群線名があった。昭和六十一年の配線図を見て合点が行った。客車区は仕立群線で、その北半分が検修庫だが昭和三十二年の図では屋外だったところにも検修庫がある。あと東京運転区になった。なるほど東京機関区と合併したらしい。受け持ちは夜行列車と操配用の14系だけになった。かつての東海道線の多くが客車だったころと比べて縮小されたため木造の部分は使はず、その先の北海岸引上線は線路が錆びたのだった。昭和五十二年の配線図では、仕立群線の四線は屋外だから木造の検修庫を使ったのだらう。
どの配線図も状態が悪く判読ガ不能のため、東海道線と品鶴線の渡り線について昭和三十二年の手書き配線図を用ゐた。しかし横須賀線ホームが出来たため何とか判読してみると、東海道下りホームの海岸側から横須賀線上りへ/からを経て横須賀線下りまでの渡りがある。横須賀線下りは八つ山群線を合流ののち横須賀上りへ/からを経て東海道下りに至る。東海道上りは下りへの渡りの少し先で横須賀上りへの渡りがある。臨時ホームからは横須賀上りまで渡りがあり、その先に入替でも使用するのぼりから下りへの渡りがあるからこれで下りへ行ける。

二月二十六日(日)その四 まとめ
12系と14系座席車の常備駅について、品川駅と沼津駅は14系のみが常備された。通常は12系のみ、大きな駅には12系と14系なので全国でも二つの駅だけが例外だった。このことは操配用の12系は多客時の臨時列車の他には創価学会団体列車に使はれることが多いことを物語る。この団体列車は富士駅(或いは身延線に乗り入れて富士宮駅)が終点だから、地元の沼津駅に常備する必要はなかった。品川からは80系電車、後には113系電車が富士宮まで運転したからやはり常備させる必要は無かった。
昭和47年頃に鉄道ファン誌が創臨(創価学会臨時列車の国鉄用語)を特集し、全国から富士または富士宮駅に到着した客車列車は品川に回送し、東京方面の団体客があるときは乗車させたとある。昭和四十年代前半までは品川から富士宮は従来客車だったのでこの頃の話だと思ふ。その後、富士宮駅の北側に客車留置線、電車留置線、洗浄線が建設されたから、品川への客車回送は無くなり、東京からの団体客は電車になったのだらう。
品川駅の団体待合所は最初、駅の海岸側の改札の外にあった。今では想像できない小さな出口だった。後に臨時ホームの上に作られ、修学旅行で「ひので」号の待ち合はせのため中学生が利用することもあったが、ほとんどが創臨用だったことは、待ち合はせ所の内部の広告がすべて創価学会専用仏具屋、葬儀会場などの広告だったことからも判る。創価学会が創臨が廃止になりまもなく団体待合所が廃止になった。全国の12系客車がほとんど廃車になったのは、これが一因ではあった。
しかし国鉄分割時の客貨分離が大きい。貨車に混ざって貨物列車として八つ山群線に到着した客車を横須賀線下りから上り、東海道下りと二つの本線を越えて臨時ホームまで入替するその光景は絶品だった。記憶が曖昧だが臨時ホームで機関車は八つ山群線に戻り、客車操車場から来たDD13が操車場内に移動させたと思ふ。
あともう二つ記録しておきたいことがある。まづカートレインは東海道線下りホームを使用して入替をした。記憶が曖昧だが汐留駅(後には浜松町駅)から回送で来た列車はホームで電気機関車を切り離した。次に客車操車場からDD13が来て操車場内に移動させた。次に、臨時ホームと東海道線下りホームは八の字に開き、その間で客車操車場からの群線が集結した。寝台特急の入替などで運転係(操車担当)が扉の下の足掛けから旗を振りながらカーブが続く線路で機関車に合図するため地面に降りる姿が、ホームからよく見えた。JRになってからも長らくこの作業は続き、ホームで列車を待つ人たちは、ずいぶん危ない作業だと思ったことだらう。しかしこれが熟練だ。そして長年の伝統作業だ。(完)


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