九百二十七 駅構内の操車場(5.大宮駅)

平成二十九丁酉年
一月二十九日(日) はじめに
大宮駅はその南側に大宮操駅と云ふ貨物駅を兼ねた貨車操車場があり、京浜東北線の窓からハンプを転がる貨車を見ることができた。大宮機関区と大宮客貨車区が同じく大宮駅の南方にあり、その横までハンプの引き上げ線があったから、大宮客貨車区への入替は大宮操駅が行ふと信じて疑ふ余地はなかった。
あるとき大宮駅の駅員に大宮客貨車区は大宮操駅が入替を行ふ前提で質問すると、大宮駅だと云ふ。確かに川越線のホームを延長すると機関区と客貨車区がある。どちらなのか確認する機会のないうちに、東北上越新幹線の工事のため、大宮機関区は新たに大宮工場の高崎側に川越線用気動車基地が移転した。大宮客貨車区は大宮操駅の中ほどに移転した。
そのためこの問題は永久に判らないと思ってきたが、今回配線図を見ることができた。

二月三日(金) 昭和四十七年の配線図(1.ホーム南側と西側)
昭和四十七年の配線を見ると、東北線と高崎線の下りホーム8番、9番の西側に10番。11番は貨物下り本線。川越線ホームは12番、13番で南側は一つに併合ののち移送線となり大宮操駅に繋がる。途中から渡り線で機関区に入る。移送線から折り返してこちら向きにホーム西側の14番と北部入替6番から9番。
貨物下り本線は大宮操の西側から高架で移送線と通路一区を跨いだあと後者と併合しホームの横へ。その東には大宮操の各線を併合した後の下町到着線、下り押上線、上り押上1番線、上り押上2番線が終端し、このうち下町到着線は下り押上線と両渡りののち貨物下り本線から分岐した渡り線を併合し9番ホームと10番になる。
これでは大宮駅と大宮操駅の境界が複雑で、ホームの南側と西側はすべて大宮操駅かと思ってしまふ。しかしそんな国鉄関係者がすぐ判ることを当時調べてはいけない。今だから調べる価値がある。

二月五日(日) 昭和四十七年の配線図(2.大宮客貨車区、大宮機関区、大宮工場)
北部入替6番と7番は、14番と合流の後に機関区へ。大宮工場西端の2線から移送線までずっと続く斜めの線があり、北部入替9番とダブルスリップののち9番の反対側は材料線へ、斜めの線は北部入替8番から移送線へのシングルスリップののち、北部入替8番は客貨車区の検修4番から8番へ。斜めの線はその先で客貨車区の検修1番から3番へ。北部入替9番は左へ工場西端の2線のうち手前の線まで斜めに繋がりその間、8線が分岐しすべて工場に入る。右にも自身を含めて9線分岐しすべて工場に入り、更に右のもう1線は川越線の1本工場側を走り、そのまま工場の裏に繋がった。その手前に北部入替9番からホームの11番線まで斜めに繋がり途中の線を吸収する。
機関区は気動車用と思はれる1番から8番までとそれより短い扇形庫横の9番、10番。1番手前に収1番から5番だが有校長が書かれるので駅構内と思はれる。扇形庫北側は検修庫で1番から6番とその両側に屋外を通過する線。
大宮機関区は川越線の気動車とDLを受け持つから構内が広く洗浄線もある。客貨車区は洗浄線がなく客車も営業用は無い。なぜ貨車区ではないのか不思議だった。大宮駅と東大宮駅の中間に東大宮操車場があるが、ここには尾久客車区の東大宮派出検修と派出運転があるものの、大宮客貨車区とは無縁だ。インターネットで調べると昭和47年まで客車列車が高麗川まで一往復あった。その前は昭和30年台に八王子まで一往復あった。一往復のために客貨車区だったのかも知れない。
大宮工場で転線するときは、駅の構内まで出て来て再び入場する。大宮から家族旅行するとき時間があったので空いてゐる川越線のベンチに座ったところ、工場の移動機械(機関車みたいに速度が出ないのだらう。動輪に蒸気機関車のやうなロッドが装着されてゐた。

二月十一日(土) 昭和五十五年の配線図
昭和五十五年の配線図を見ると、下町到着線が貨物下り本線から分岐した渡り線を併合し9番ホームと10番になるところは今までと変はらない。変はったのは大宮客貨車区が無くなった。残った線路は仮D線群が4本、引き上げみたいな線が1つと材料線みたいな線が2つ。北部入替8番が無くなり空地になり、工場の西側4線(屋外)が無くなった。これらは新幹線工事のための撤去なことがよく判る。
私の興味が大宮操駅との境界と、客貨車区にあることがよく判る。客貨車区はこのとき大宮操駅の中ほどの与野駅近くに移転した。この時点で貨車区と改称したかどうかは判らない。

二月十一日(土)その二 昭和三十三年の配線図
昭和三十三年の配線図では、京浜東北線が独立してゐない。それより本屋に面したホームの反対側の一部に東武1がある。これは乗降用だが平行に2から5がある。これらが収束したあと東北上本への渡りがあり、上本は東北上中との片渡り二つ(つまり両渡りを分解したもの)がある。上中は東京方に上本への渡りと高崎上本からの渡りがあり、その先は一両分しかない。つまり東北高崎の両線からの上り貨物が上中に着き、入替で東武鉄道と貨車の授受を行ったと推定できる。

二月十三日(月) まとめ
大宮には大宮操駅、大宮駅、東大宮操車場と三つの停車場があり、たぶん隅田川駅で小荷物のアルバイトをしたときだと思ふが、鉄道電話の電話帳によると東大宮操車場は大宮駅が管理してゐた。
あと昭和四十九年に上野駅のホームで、「大操、東大宮操車場で落雷のため到着が遅れます」と放送するのを聞いたことがある。大操は国鉄内部の表現だから再度東大宮操車場と云ひ替へたものだが、操車場は高操、向操、宮操と略すので東大宮操車場も大操と略すことを知った。
高崎は新幹線工事で客車区が移転したが、大宮も新幹線工事で客貨車区と気動車基地が移転した。どちらも客車と貨車の元気な鉄道時代最後の新設だった。(完)


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