九百二十七 駅構内の操車場(4.高崎駅)

平成二十九丁酉年
一月二十七日(金) はじめに
私が初めて高崎駅の線路を見たのは昭和五十一年頃で、ホーム東側にたくさんある線路が茶色く錆びたか撤去して枕木が残った状態だった。駅の新潟方に機関区と客車区の建物が残ってゐた。撤去する理由は上越新幹線の工事が始まることだった。駅の東京方に新しい客車区が新設された。従来客車がたくさん留置してある。しかし私は思った。新幹線はよくない。駅の配線をいびつなものにしてしまふからだ。
それから四十年の間に日本の鉄道はいろいろな変化があった。まづ貨物の操車場が廃止された。それまで貨物はどの駅にも発送できたが、このときから貨物は限定された行先にしか発送できなくなった。
次に旅客列車の連結車両数を短縮し、その代はり増発するやうになった。これは旅客にとりよいことだ。しかし客車の気動車化を促進した。円高と人件費の上昇。これも国民にとりよいことではあるが長期に見ると失業者を生む。鉄道では動力費と車両製造費の比重が減少し、交流電化区間での客車の電車化した。車両の検修を一両単位から列車単位で行ふやうにもなった。そしてJRが発足し貨物と旅客が分離された。
以上の結果、構内に操車機能の有る駅が新設されなくなった。いびつではあるが最後に新設された駅が高崎駅になった。

一月二十九日(日) 昭和三十三年の配線図(1.本線から入れる線)
昭和三十三年の配線図によると、下本が282m32両、中1が364m41両、中2が488m51両。中2は二番目のホームに面する。二番目のホームの反対側は1/3弱の切り込み(八高線用)と残りの部分で信越上本461m54両。切り込みの終端から信越上本への渡りがある。三番目のホームの両毛上本520m56両は信越上本より少し短いから切り込みは70m程度か。三番目のホームの反対側は上越上本535m46両で、ここまでは太線。
以下普通の太さで上り1、2が273m、次から太線で上り3が450m52両、上り4が468m52両。次から普通の太さで上り貨1が383m、2が319m、3が281m、4が217m、5が214m、6が157m、7が157m、機回りが285m。
ここまで大宮方と新潟、長野方から直接着線できる。

一月二十九日(日)その二 昭和三十三年の配線図(2.本線東側と高崎第一機関区、高崎客車区)
機回りから破線で北半分の外側に並行で機関区の線。これは両端が機回りから分岐するから途中で駅の操車掛から機関区の誘導掛に引き継ぐとしても厳密にはここまで着線出来る。そこから石炭、1番から4番の先に扇形庫。
機回りの南半分に外側に洗滌主線415mとその延長線上が3つに分岐し中央の洗x(読めないが臺か)2。ここから破線で左右が洗x1と3、その手前から左に分岐し仕立1と2、右に仕立3で先端に検修庫、その右にxx(読めないが板紙?)線。
洗滌主線から外側に分岐した実線が2つに分岐するとき破線。
実線で洗滌主線の南側が南部第1入替、その外側が南部第2入替。前者は短いから機関車と短編成の引き上げ用か。第2入替の北側がホームの手前で45度に外側にまづ電キ1から4で先は再び1本の引き上げ線に。更に外側に南1から6と、破線で7。
太線は本線から場内信号機で入れるところ、実線は架線のある線、破線は架線の無い線と思はれる。

一月二十九日(日)その三 昭和三十三年の配線図(3.本線西側)
本線西側はホームの手前で、ホーム側から外側に日本製粉の専用線が破線で分岐する。ホームの直前もホーム側から外側に実線で上信電鉄へ分岐する。後世の人は分岐するところが上信電鉄との境界と思ってしまふだらう。しかし分岐して南1から4に入るところまでは国鉄が担当する。折り返して上信電鉄のホームは下本線の反対側南半分にあり上信着発と書かれてゐる。ここは両端に渡り線が北1との間にあり、北2から5とその外側の貨物ホームの線は上信電鉄本線(単線)で集結し、貨物ホームの線は本線のほかに2線に分岐する。
南1から5に国鉄の機関車が入ると考へるのは常磐線の柏駅がこのやうな配線だった。東武鉄道側の群線まで国鉄の機関車が入った。
川越駅は東武鉄道の本線を跨いだところに貨物ホームがあった。川越駅は全体を東武鉄道が管轄してゐた。国鉄単独の貨物列車でも東武鉄道の駅員が操車し、東武の本線を超えて貨物ホームに貨車を入替した。ホームの駅員は東武の制服を着てゐた。
ホームの北側は北に向かふにつれ外側に、外側から、外側に、と3つの渡り線で実線の機待線に繋がる。ここから下貨1、次から破線で下貨2から5で、2は短い貨物ホームが両側、3は中線、4は片側、5は長いホームが片側。45度の傾きで6から12。これらの北側の引き上げ線の外側に日清製粉の専用線。

一月二十九日(日)その三 昭和五十三年の配線図
ホームの東に平行して13本、ホームの南東に斜めに11本あった線路は、新幹線の駅を作る工事のため撤去された。機関区は高崎操車場の構内に移転し、客車区と客車留置線はホームの南東に新たに作られた。本線に近いほうから南部第1入替線の延長が機留線、第2入替線の延長は留置1番から7番までと洗滌8番まで実線。ここから破線で仕業9番と検修庫が2/3ある検修10番。10番から南方に分岐する救援車留置線。西側の専用線、上信電鉄との授受、下貨1から11は昔と同じやうに存続する。
この時期、上野発高崎行きの従来客車が到着するのを見たことがある。到着するとELは切り離し高崎操車場の方角へ入替で移動、客車は機関車なしでそのまま長野行きになった。中線をDL(DD13かDE10かは記憶にない)が1両かなりの速度で北方に運転掛(操車担当)の旗で移動し、しばらくして後方から別のDLが別の運転掛(操車担当)の旗で移動するのを見た。貨物の下1から11の入替のためだと思ふ。
このときはまだ操車場としての高崎駅は昭和三十三年と変はらなかった。(完)

二月三日(日)追記 三番線の写真を見て思った
三番線に従来客車が停車し、手前には荷物を運搬する台車が二つ、そのうちの一つには郵袋みたいな袋が積んである。危険立入禁止と書かれた荷物用開放型エレベータの下がる部分と、その先に見える高崎客車区の12系。
八高線は全列車が気動車化された後だから、従来客車は尾久への回送列車だと思ふ。それより今回追記したのは昔の駅は荷物を扱ったため、台車やエレベータなど駅が有機的だった。今は旅客だけだから駅が無機になった。

三月二十六日(日)追記 操車掛
昭和五十二年にホーム停車後の上野発高崎行2321列車の半分の車両が321列車になり長野まで直通する。その機関車を操車掛が連結させるため旗で合図する写真がある。私が高崎駅で見たのもこのころで、私の記憶では機関車を外したあと客車はそのままホームに放置し、暫くして別の機関車を連結した。或いは別の時間帯の列車はそのまま直通し、この写真の列車は半分の車両が直通したのかも知れない。
それより注目すべきは、操車掛は駅員や運転士の帽子とは異なるが作業帽をかぶってゐる。その後、ヘルメットになりしかも助役は赤い線の入ったものになった。職名が運転係(操車担当)と変はったのもこの頃だと思ふ。


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