九百二十七 駅構内の操車場(13.水戸駅)

平成二十九丁酉年
四月九日(日) はじめに
佐倉駅の次が水戸駅なのは、我孫子経由ではない。かつては国鉄として開通予定だった鹿島神宮と水戸を結ぶ線を経由してのことだ。房総半島は鉄道の終端で、他の地方と繋がるには新金線か我孫子経由しかなかった。
両国から秋葉原経由御茶ノ水は電車気動車専用線で、昭和四十七年頃にお召し列車が走ったことがあり、その前も戦前に一回だけお召し列車が走った。錦糸町から東京駅までは電車専用線だ。
客車の回送は(1)貨物列車に連結、(2)客車列車に連結、の二つの方法があった。それ以外に客車専用の回送列車(試運転列車)があり、品川から大船で工場に行く客車の授受を行って、品川に戻るのかそのまま尾久に行く列車があった。その列車の続きなのか違ふのか不明だが、尾久発赤羽で貨物線に入り大宮で工場との授受を行ひ高崎まで行く回送列車もあった。千葉は(1)で回送したが、水戸まで鉄道が開通すると(2)もできるだらうと期待した。実際には、国鉄ではなく鹿島臨海鉄道として開通し、貨車操車場廃止で佐倉駅常備の客車が無くなった。更に国鉄民営分割で客貨車区が無くなり、今では客車がほとんど無くなった。
私が(2)の期待を持ったのも無理はない。当時は常磐線の普通列車を除いて、東北地方の交流電化区間はすべての普通列車が客車だった(一部、気動車が電化区間を走ることはあった)。

四月十六日(日) 昭和三十三年の配線図
水戸駅は、本屋の向かひが片側で下本、中線を挟んで島式ホームの上本と上り一。その隣が上り二~十一。
その隣が機・区線で日暮方は機関区で二つの転車台。
その隣が下一~十一。このうち下三から下三(書き間違ひか。元の線と同じ名称)、洗滌一~三、無名の線。下三(分岐した後)から無名の線までは有効長が書かれてゐない。無名の線が客貨車区の検修線か。下十から下十が分岐し、日暮里方で元の10、9と合流。一~九は日暮里方で行き止まり。
その隣が東一~十一で日暮里方に行き止まり。
本屋の日暮里方に貨物が四線で、下りを逆走、つまり入替でしか入れない。

水戸の客車操車場については、これ以外の写真や資料は検索しても見つからなかった。
東北地方の交流電化区間で常磐線だけ普通列車に電車が進出してゐた。しかもこの電車だけ交直両用なのに扉に段差が無かった。特急、急行の電車は一段付いてゐた。だからホーム高さで考へるとき、交直両用の電車のうち普通列車を除いたものは、電車と気動車の中間と云ふことができる。
(このやうな見方をすると類似のものとして、連結器で見るとき、気動車は貨物列車で車掌車の一つ前に連結できた。だから貨物列車から見るとき気動車は、機動車と客車の中間と見ることができた。電車は山手線や京浜東北線など通勤型を除き、近郊型も先頭車の床下に中間連結器を積み、自動ブレーキ管の金属製のものが突き出てゐた。だから通勤型を除く電車は電車と客車の中間と見ることができた。)(完)


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