九百二十七 駅構内の操車場(12.錦糸町駅、佐倉駅、その近隣)

平成二十九丁酉年
三月二十九日(水) はじめに
都電の両国駅前の停留所は線路がそのまま延びて、両国駅に無蓋車で到着した都電を線路に乗せる場所があった。千葉県内を走る客車の一番多い常備駅は錦糸町駅だった。私が小学校五年のときに臨海学校があり、両国駅から客車に乗り途中で機関車を交換したかどうかは判らないが、鋸山の隋道で煙が車内に立ち込めて大変な騒ぎになった。因みに帰路は鋸山の手前ですべての窓を閉めたため煙は車内に入らなかった。
臨海学校の前日のテレビ「おそまつ君」の主題歌が突然変はった。だから臨海学校に行く朝の集合場所のモルタル校舎通路では、おそまつ君の歌が変はったと云ふ雑談でひっきりだった。モルタル校舎は戦前に作られたもので私の父の卒業アルバムにも載ってゐる。根津から両国までは都電の貸し切り車で37系統と同じ経路で小川町の先で折り返し両国に到着した。
このやうな思ひ出があるので、両国駅は大きな貨物取扱所と貨車検修施設、錦糸町は中規模の客車操車場だらうと思ひを巡らすものの、どちらも既に廃止になり確認することはできなかった。ところが「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」とは異なる別のホームページに両国、錦糸町、亀戸の配線図があった。

三月三十日(木) 両国駅
両国駅の配線図を見ると、予想に反して普通規模の貨物取扱所と客車洗滌線のみだ。まづ行き止まりの島式ホームの両側が3,4。中線が機回りでその隣が島式で5、6。7~11が洗滌線だが11は洗滌台が片側だから留置線或いは車内清掃か。
錦糸町方に引上げが二本。うちホーム側の一本から客車関係7~11に分岐する。もう一本へは本線からの複線の渡り、その先の両渡り、その先の片渡りで客車洗浄線に行けるほか、単線の着発なので場内出発信号の管轄下。その先が南1、2で先端に片渡りで機回りを兼ねる。これらから錦糸町方に引き上げたあとの再折り返しは南3、4と北1~5。南4と北1の間が扇状の貨物扱ひ所。北4、5から錦糸町方に先ほどの隣の引上げ線から折り返して江東市場専用線が一本のみ。

四月八日(土) 両国駅、追記
この配線図をもとに、小学校五年のときに見た両国駅の光景はどんなものだったらう。ホームの隣は洗浄線が下にあり、客車の屋根がホームの線路と同じ高さに見える。そんな光景を追想した。配線図の説明を読むと、洗浄線はホームの線路と同じ高さ、引上げ線のうち一本が傾斜で降り、貨物関係は下。昭和50年以降の両国駅は、総武線各駅停車のホームの下に、行き止まり式の長距離列車のホームがあるだけだった。その先が低い情報は読んだことが無いから、或いは小学生のときの記憶がかすかに残ってゐたのかも知れない。
本日は青春18切符を使って那古船形まで行った。これは臨海学校のときの記憶が今でもあるのだが、線路に沿って暗い感じの草むらがずっと海岸まで続く。実際には海岸まで続くかどうかは判らない。途中に道路や点在する民家があるのかも知れないが。あの光景は本千葉から先だらうか、蘇我から先だらうか。確かにあの風景がまだあった。田んぼが先に広がる光景もあった。田んぼは珍しくはない。私が中学生くらいのときに京成電鉄に乗ったら津田沼から先は一面田んぼの中を走った。だから記憶に残らなかったが、なるほど海岸までの間に田んぼもあったことを知った。この先は窓から海岸が見えるやうになり、暗い草むらの光景は消える。

四月九日(日) 錦糸町駅
私は国鉄より路面電車に興味があり、錦糸町と聞くと都電の錦糸堀車庫を思ひ出す。錦糸堀車庫の人は親切で行くといろいろ教へてくれた。だから国鉄錦糸町駅の記憶がまったくない。今から考へると惜しいことをした。
昭和四十一年の配線図を見ると、中規模の客車操車場ではなく小規模だった。両国方の下り本線から亀戸方の折返248へ。この線の折り返しと亀戸方本線からの渡りが合流して貨物212。この位置はホームからはまだ亀戸寄りで、その先が西1から7、これらへの分岐の途中に平行して到着237、中1が115、中2が70、中3が110、中4が186。
これらから亀戸方への折り返しが東2の229、3と4の156、5が130、6が120、7が57、検車入替130。7は両国方に検車入替へ分岐する先が70。検車入替は両国方に修繕20、検車1が74、2が57、3が96。これらはまだホームより亀戸方。東5~7と検車入替から両国方に給水39。
西1の342のうち両国側50に貨物ホーム、低床式か。西4の185のうち両国方110がホームで高床式か。西6は161だが高床と思はれるホームは261で、機回りの先と渡りの手前を含めてこの数値になるらしい。西7は貨物ホームの反対側が船梁に面し、船梁の亀戸側は埋立と書かれクレーン148と、その陸側が中5、その先端が倉庫106。
これらとは別に折り返し線の先が左に分岐してシェル石油77、折り返し線自体もこの程度の長さが隣に続きここはシェル石油の貨車の国鉄側留置線か。 両国着発の列車は両国で清掃する。検査修繕のため回送で来た客車は折り返し線から到着線に。その後、東2から6に入れて機関車を切り離す。両国に行くときはこの逆。今回注目するのは修繕の20m。これだと1両しか入らない。

四月九日(日)その二 錦糸町駅、追記
インターネットで検索すると、当時の錦糸町駅の写真が見つかった。本線は盛土で車両高の半分くらい高い。折り返し線から貨物212に下る線の外側に低い位置で材木を積んだ無蓋車数量の間に有蓋車が一両。同じ種の貨車が多いから東2で待機中だらう。東2だけ長い理由が判り、東5~7の亀戸側に客貨車区と思はれる木造の建物がある。
写真の説明を引用(要旨)すると
オハフ+オハ×5+オハフの基本編成にオハ/オハフ1両ないし3両の付属編成、さらにスユニで、成田区と分担して千葉県内の客車列車をまかなった。錦糸町持ちの基本編成は運用番号「千2」で夕方新小岩から迎えに来たC57に牽かれ両国に回送、館山行き125レで下り2日目、3日目は館山-千葉を一往復ずつ、4日目に館山発で両国に帰ってくるが、錦糸町には戻らず331レとなって銚子へ。5日目は銚子-千葉を総武/成田回りで2往復。6日目に銚子発両国行き326レとなり、両国留置の後、夕方の221レで勝浦へ。翌7日目早朝、勝浦発両国行きの222レで3たび両国に戻り、回送され錦糸町に戻ってくる(昭和43年時点)。常時6組の「千2」が千葉のどこかにいるが、本拠地の錦糸町に戻ってきて出て行くのは一日一組だけ。猫の額のような狭い敷地の客貨車区のわりには配置両数が多い、という秘密はこんな運用にあった。

客車は錦糸町、成田、佐倉、勝浦などに分散配置されたのだらうと思ってゐたが、貴重な情報なので引用させて頂いた。

四月九日(日)その三 亀戸駅
昭和41年の亀戸駅は、ホーム下りの隣に下1、越中島本が南側に分岐した後に再度分岐し1。それらから北側新小岩方に入換で入ると引上188。更に錦糸町方に折返167。更に折り返して片渡りで東武鉄道、両渡りで上り下りのどちらにも引き上げたあと、東武鉄道の島式ホームの両側に着線できるがホーム北側1は180で入換220への片渡りがあるからこちらを使ひ、ホーム南側は電車専用線だらう。有効長が書かれてゐない。
入換は機回のほか貨物1から4に行く。このうち貨物3は148のうち中央部分の35が高床ホーム、貨物4は168で屋外積み降ろし場。
新小岩ほうから来た貨物列車は、越中島1で折り返して引上。再度折り返して折返。更に折り返して東部本線、更に折り返して島式ホームの北側。更に折り返して入換線。ここで連結を解放して貨物1から4へ。
配線図を載せた方は
新金貨物線が開業(大正15年7月)するまで、東武鉄道との授受があったようです。

と推定された。私は川越駅を思ひ出す。国鉄川越線に貨物列車が到着すると、東武鉄道を横切って貨物扱ひ所と貨車の授受を行なった。東武鉄道と国鉄で貨車の授受を行なってゐたかは判らないが、私は行なってゐたと思ふ。川越駅は川越線のタブレットの受け渡しを含めて全体が東武鉄道の管理だった。
だから東武鉄道との授受はあったのではないのか。新金線経由にするかどうかは荷主が決めたのではないだらうか。

四月九日(日)その四 佐倉駅、成田駅
私が佐倉駅の客車操車場を始めて見たのは、千葉県内から客車の定期列車が消えた後だった。従来客車が10両以上は留置されてゐた。或いは臨時列車用に残してあったのかも知れない。その後、12系客車が6両佐倉駅常備になった。佐倉の客車は全般検査などに出すときは貨物列車の最後尾から二番目(車掌車の前)に連結して大宮まで回送した。
何年も経過の後に、9両に増えた。12系は6両に1両の割合で車内電源用のディーゼル発電機を床下に搭載する。この車両を検査修繕中は他の6両が使へなくなるためだらう。或る時、客車操車場に12系がゐないことがあった。佐倉駅の助役に質問すると、陸橋手前左側に検査をする場所があるとのことだった。その時はなるほどと納得したが、今考へると12系は一編成全体が臨時列車で出払ひ、それとは別に客操の検修庫で検査をせず貨車と同じく陸橋の手前で行なふやうになったのかとも思ったが、貨車の検修を検修庫でやらないと云ふ話だったと云ふのが正解かも知れない。私が質問したのは一回だけだったが、都電の錦糸堀車庫と並んで、佐倉駅の助役には親切に教へて頂いたと今でも強く印象に残った。
千葉管と云ふ単語をよく使ふので、千葉鉄道管理局ではさう云ふのかと思ったが、後年になって千葉鉄と呼ぶ人もゐたさうだ。

成田駅は、我孫子方へのホームの横に何線も留置線があり、佐倉方にも留置線が何本もある。たぶん駅員に聞いたのだと思ふが、佐倉方の留置線のうち、一番奥の一線が成田運転区ださうだ。成田駅の留置線には一月に電車の臨時列車がよく停泊してゐたが、12系の停泊も一回だけ見たことがある。
佐倉駅の客操は新しいので、高崎駅と同じで最後のほうに新設され、成田駅の客操は廃止になったのかも知れない。成田、佐倉とも配線図が無いのが残念だ。(完)


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