九百二十七 駅構内の操車場(11.沼津駅と富士駅)

平成二十九丁酉年
三月二十五日(土) はじめに
電話帳を調べると、全国の客貨車区で沼津だけ客操事務室と云ふものがある。沼津駅は東海道線から御殿場線が分岐したところに貨物線がたくさんあり、その一番東海道線寄りに客車の留置する部分がある。ここが客操事務室だと私はずっと思って来た。
今回、配線図を見ながらそれを検証したい。

三月二十七日(月) 昭和十年の配線図
昭和十年の配線図は、昭和六十年くらいまでとそれほど違ひはない。御殿場線に分岐する先の東海道線側に後の洗浄線が御殿場線と平行に七線ある。御殿場側から入れ替へで着線する。分岐する部分のホームと反対側に機関区の扇形庫の山側に客貨車区らしい線が五つで、うち二つは検修庫。機関区の御殿場寄りに四線検修庫があるが、これは気動車用か或いは電気機関車用か。

三月二十七日(月)その二 昭和四十年の配線図
昭和四十年の配線図では、客貨車区の5線が工場1~5になった。工場とは検修線の意味だらう。沼津工場ははるか昔に移転したし、電気車庫の位置にあったやうだ。扇形庫の御殿場寄りの4線は電気車庫と書かれ1番線から4番線、その隣に5番、6番、出区線、機待線、その富士駅寄りに北検査線、南検査線、入区線があるから、これらは機関区の構内だ。
私が客操と推定した位置は洗滌1~12。御殿場線ホームの山側隣富士駅方に上り貨物中継ホーム、東海道線下りホームの富士駅方に島式の下り貨物中継ホームがある。これが下り2、3でその海側に下り4~14の留置線と、そこから蛇松線が富士駅方に。

三月二十七日(月)その三 昭和四十二年、四十九年の配線図
昭和四十二年の配線図では工場1~5が客貨車区1~5になった。四十九年の配線図ではまた工場になった。
沼津機関区の御殿場方には北仕分け線が1~15まであるのは従来と同じ。

三月二十八日(火) 昭和五十三年、五十九年の配線図
昭和五十三年の配線図では、客貨車区から静岡駅方に引き上げる途中に従来からあった側線一線に伊豆貨物急送と書かれた。昭和四十二年にはホームの図もあるから高床の貨物ホームだらう。昭和五十九年では伊豆急貨物側線になってゐる。伊豆急のトラックに積み代へるのだらう。
配線図を見て、一つ判らないことがあった。沼津駅は東海道線の車窓から構内を見るだけだったが、御殿場線の海側は洗浄線だけと云ふより、客車の留置線の様相だった。そしてここで検修も行なふのだらうと思った。しかし山側に客貨車区があるので、客車の検修もここで行なったのか。こんなことは駅で下車して反対側を外から観ればすぐ判る。今となっては調べることができなくなった。

三月二十八日(火)その二 富士駅
富士駅の昭和四十二年の配線図では、身延線は沼津方に分岐する。その海側に庫6~1、7~10(海側に向かって)があり、その一方で静岡方に入庫、出庫があるから富士電車区が移転したのだらう。
富士駅には客貨車区はないが、上りホームの上本の対面が上1、その隣から静岡方に向かって上2~17、下りホームの下本の対面の下1の隣に側線として下2~6、7社への専用線がある。操車場は客車操車場と貨車操車場と云ふのが定義だが、私は貨物取扱駅はすべて操車機能があると定義する。それが今回の1.富山駅から始まった特集の主題でもある。
昭和五十三年の配線図では身延線の分岐が静岡方になった。庫1~10が無くなり、上7の山側に上仕分8~23、コンテナ1、2が出来た。身延線の付け替えへは昭和四十四年で、これで東京方からの団体列車は富士宮まで直通、大阪方からの臨時列車は富士が終着駅になった。(完)


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