九百二十七 駅構内の操車場(10.京都駅「熊本駅、長野駅との類似」)

平成二十九丁酉年
三月十八日(土) はじめに
私が京都駅に始めて降りたのは昭和六十一年だった。ホームから洛中とは反対側に向日町運転所京都運転支所が荷物車を検修してゐた。営業用の車両は向日町操車場が常備駅(略号はムコだから厳密には向日町駅)だが、荷物車などは京都駅(略号はキト)が常備駅だった。
似た例として熊本駅がある。地元を走る客車は川尻駅に隣接した熊本客車区が担当したが、寝台列車は熊本駅構内で検修を行なった。同じく似た例に長野運転所がある。気動車と電車は北長野駅に隣接した長野運転所で行なったが、客車は長野駅構内の第二分所で行なった。私は昭和54年頃長野駅のホームからそれを見た。当時の鉄道ピクトリアル誌に第一分所は機関車とあったが、このとき篠ノ井に移転した後だった。

三月十九日(日) 昭和二十五年
1が本屋の片ホーム、2と3が中線、4と5で島式ホームだが5は東京方が行き止まりで先端が電留1。その隣は中線で電留2。1線おいて隣が8と9の島式ホーム。8から1線おいたところに大阪側から半分だけ客留、残りの半分は電留2から分岐した3。10と11で島式ホーム。
その隣に12から19は客車区と留置線か。その隣の機走の大阪側は南1から8、東京側は機関区。
本屋ホームの大阪側切り欠きが山1と2の両側ホーム、その隣が2の機回りの3と4から6。ここは普通の駅の貨物扱ひ所と貨車留置線だが、この時期既に梅小路に移転したので山陽線の留置線だらう。

三月二十五日(土) 昭和四十一年、四十七年
向日町操車場が出来て京都の客車操車場は縮小になった。昭和四十一年の配線図ではホームの隣は12から16までになった。転車台は無くなったが機1~4は残った。昭和四十七年は客車部分は変はらないが、機1~4が無くなった。私が京都駅で見たのはこの段階だらう。(完)


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