八百六十(その七) 横山禎徳氏共著「コーポレートアーキテクチャ」
平成二十八年丙申
九月八日(木)
序章、第一章
この本は平成4(1992)年に出版された。マッキンゼーの東京支社長だった横山氏と、マッキンゼーのディレクターだった安田隆二氏の共著だ。バブルがはじけた後なのでまづ序章では
「何のためのリストラか」「誰のためのリストラか」、そして「誰とリストラするのか」
と云ふ。一番目について
「再び高成長・高収益会社に向けて、内には低コスト、外にはシェア拡大」と答えるならば、首をかしげざるを得ない。成長オンリー、シェア至上主義こそ、現在の破綻をもたらした原因ではないのか。
これには表面的には同意見だ。成長せず安定した状態を続けることこそ重要だからだ。しかしこの本は
「成長」に代わる新しい企業価値観を提示し、独自の企業ヴィジョンに基づいて、事業ドメイン(領域)を定義することなくして、本当の事業ミックスは選択できない。
それはその通りだ。しかし新しい企業価値観、独自の企業ヴィジョン、事業ドメイン(領域)を見つけることは容易ではない。マッキンゼーみたいに後から結果に理屈を付けるなら容易だが、企業は前に制定して利益を上げなくてはいけないのだから。
第一章で注目すべきは共産主義に勝ち、湾岸戦争にも勝利した米国が
経済面での弱体化の中で、残念ながら偏狭なナショナリズムが台頭し、その矛先きは金融大国、輸出大国となった日本に向けられているのが現状である。
これは正しい。だから私はそれまで親米だったが、船橋洋一の英語公用語論以来、アメリカは日本の弱体化を狙ってゐるなと反米になった。最近は軍事では協調、文化では自立と分けるやうになった。次に
バブルの反動からか、一部の批評家の間で、「企業の利益至上主義は悪徳である」がごとくいわれているが、これは誤りである。利益を得るために不正な手段を講じたとか、利益のみしか考えない企業活動で、社会的責任をまったく無視したというのであれば、厳しく非難されてしかるべきであろう。しかし、企業の利益追求は、何ら恥じることではないし、高収益であることは、やはり誇るべきことである。
ここは同感だ。同感だが、厳しく非難されるべきことに、従業員に無理をさせるといふことを追加すべきだ。雇用の流動性が高い欧米では無理をさせればどんどん退職するから世間にあからさまになる。日本では退職者が少ないから企業ごとに異質な無理が常態化する。先の戦争の敗因は軍部が無理を強いたから思考が硬直化した。同じ過ちを繰り返してはいけない。
従業員を種別すると「価値創造型」と「コスト型」に分けられる。(中略)付加価値に見合った給与待遇を施さなければ不満を抱く。
研究開発やデザイナーにこのやうな人が少しはゐよう。多くはない上に、一部は独立を選ぶし一部は組織内にゐることに満足する。特別待遇することの弊害のほうが大きいと思ふ。
九月九日(金)
第二章
第二章企業ヴィジョンのリデザインでは
経営は数字だけで決まるものではない。「なぜ当社にとってこの事業が必要なのか」に対して答えるヴィジョンが曖昧なまま、何でも事業価値があるものをやればよいわけではない。ソニーが、任天堂を敵に回してテレビゲーム市場に参入しないのは、企業ビジョンに基づいた選択があるはずである。逆に、従業員が共鳴しないヴィジョンを強引に押し付けても、計算どおりの価値の向上が図れるように働いてはくれない。最近、売上げと利益の数字が見えても、顔の見えない、ヴィジョン・レスな企業が増えているのは悲しい限りである。
これは同感だ。企業ビジョンについて
いまは欧米の価値観に迎合する時代ではなく、彼らに新しい規律を問うべき時代である。証券不祥事が発覚した時、すぐに米国の証券市場の規律を模倣しようとした動きが見られたが、その米国金融市場そのものが、いまやガタガタになっている。
これも同感だ。多くの企業ビジョンが
第一に、何をやり、何をやらないのか「ワカラナイ」。国際的企業、総合○×産業では「何でもやります」と言っているに過ぎない。
第二に、あまりにも「当タリマエ」すぎて、否定もできないが、さりとて肯定して感動するところもない。例えば、顧客主義といわれて(中略)「なるほど」と手を打って、顧客主義に新しい行動原理を見出す人がどこにいるだろうか。
第三に、どのように(中略)「ワカラナイ」。どのように講堂しても「当タリマエ」であるにもかかわらず、突然、ホップ・ステップ・ジャンプと頑張り、二一世紀へチャレンジしようとハッパをかけられても、「マタ、ガンバレカ」とシラっとした気持ちになる。「スローガンとしての企業ビジョン」の域を脱皮できていないものを、企業ビジョンとするケースが覆いのは残念である。
これも同感だ。第二章はすべて同感だった。
九月十日(土)
第三章
全面賛成の第二章とは打って変はり、第三章は最初から疑問だ。
シャープは必ずしも他大手メーカーほど参入市場に広がりはないが、思い切って参入した成長市場である液晶、コードレス電話、電子手帳などでトップ・シェアを確保している。その営業利益率(四.三五%)が、他大手綜合化田メーカーの三洋電機(一.二六%)、松下電器(三.二七%)、(中略)を凌駕しているのも不思議ではない。これは「広さ」よりも「深さ」が重要になっている証しである。
シャープは今年に入りいよいよ経営が危なくなり、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業に買収された。コンサルタント会社は現在の状況について理由を付けることは得意でも、未来の予想をすることは得意ではないらしい。当時は急成長市場だったパソコン市場について
トップのNECは二三機種、六六モデルと幅広い品揃えでスキ間市場を埋め潰す「プラグ戦略」や、量のメリットを生かした価格政策によって他社の追い出しを図っている。量を生かすことでNECは、CPUの仕入れ価格を、二、三番手グループの二分の一から三分の一に抑えることができる。(中略)結局のところ、総合産業化シンドロームにに乗って薄く広く面展開してきた事業や総合化のすき間でニッチ市場を狙った多角化事業は、根本的な見直しを迫られている。
これは本質ではない。一番手、二、三番手と呼ぶとシェアが少しづつ違ふ程度の印象しか受けないが、この当時NECのシェアは90%だった。だから自然と幅広く揃ったのであって、さういふ戦略を取ってシェアを伸ばした訳ではない。
本質を語るには90%になった過程を云はなくてはいけない。当時のアプリケーションは特定の機種でしか稼働しなかった。当時のNECはOSにMS-DOSを採用したが、富士通やIBM、シャープなどのパソコンが同じOSを搭載してもNEC用のアプリケーションが動かなかった。これは画面表示、音声、日本語変換はOSを経由せずBIOSやIOポート、RAMを直接アクセスすることが原因だった。NEC以外のメーカが幾ら価格性能比の良いパソコンを販売しても動くアプリケーションが少なく売れなかった。
私が詳しい理由は、あの当時はパソコンメーカーに勤務したし、その後も一貫してコンピュータ業界にゐるからだ。専門知識に乏しいコンサルタント会社の限界がここにある。
九月十日(土)その二
第四章以降
第四章では顧客満足度分析、第六章では資金調達コストが多少役に立つが全体に占める比率は小さく、従って内容も少ない。第七章ではコーポレート・センターと云ふ組織を提案し全体最適化を目指すと云ふ。しかしそれは本来、社長または取締役会がすべきことだ。
コーポレート・センター担当の役員は、複数の無任所役員が望ましい。なぜなら、個別事業の利害のしがらみから解放され
と云ってみたところで、今度はコーポレート・センターを含めた各部門間のしがらみに捕われる。この本は二十四年前に出版されたから、今ではコーポレート・センターを担当するのが取締役、各部門の長が執行役員なのかも知れないが。
第五章は合併、買収、国際提携の話で、マッキンゼーの得意な分野だ。マッキンゼーが役立つとすると合併、買収、国際提携のときかも知れない。一方で、ここ二十年ほど不必要な合併、国際提携が多いやうに感じる。マッキンゼーを含むコンサルタント会社が実力以上に能力を既存企業に見せつけ、これらを流行させたのではないことを祈りたい。(完)
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