八百四十一 読書記(4.失敗の本質 戦場のリーダーシップ)

平成二十八年丙申
六月七日(火) 読んだ第一感想
「失敗の本質 戦場のリーダーシップ」といふ続編がある。私は五年前に石原莞爾を特集したが、その前までは石原莞爾に悪い印象を持ってゐた。しかし石原莞爾の著書を読み、そのアジア主義と、主張に筋が通ってゐることに驚愕した。これは戦後に石原のアジア主義を嫌った勢力が、満州事変の首謀者といふレッテルを貼って葬り去ったのではないか。さう思った。
満州事変はその前の張作霖爆殺事件で、もはや避けては通れなかった。満州事変は決して石原と板垣が個人で起こしたのではなく関東軍司令部全体が知ってゐたと推定すべきだ。満州事変ではないが、爆殺事件についてこの本は河本大作が個人で起こしたのではなく組織でやったのだらうと推定してゐる。この本は石原莞爾と辻正信と山口多聞の三人を採り上げて一章を設けた。しかしこの一章を除く全体では石原莞爾をやや悪く見てゐる。悪く見たから一章で取り上げて全体の均衡を取った。これが私の第一の感想だった。

六月八日(水) 石原莞爾の光と影
石原莞爾にも影の部分がある。それは宇垣内閣を阻止したことだ。軍部大臣現役将官制を悪用して陸軍大臣の候補者全員に拒否させて宇垣内閣を流産させた。宇垣一成に大命が下ったのだから、それを妨害したらいけない。石原莞爾はこのとき参謀本部作戦部長として意気揚々とした時代だった。そのようなときこそ謙虚に行動しなくてはいけないのに、人生最大の失態だった。このあと盧溝橋事件の処理を巡り、石原は拡大派によって左遷させられ二度と中央に戻ることはなかった。
この本は宇垣内閣流産を厳しく批判しながらも、石原を批判はしてゐない。全体では石原を悪く見てゐるのに不思議だといふのが二番目の感想だった。

六月九日(木) 宇垣一成
この本は宇垣一成自身については触れてゐない。インターネットで調べると大変なことが判る。岡山の出身だが長州閥に属した。軍曹のときに陸軍士官学校1期として入学した。つまり下からのたたき上げだった。陸軍大学校も卒業し、しかし昇進は遅かった。大正14(1925)年陸軍大臣のときに軍事予算の削減を要求する世論に押されて21師団のうち4師団を廃止、多数の将校を現役から削減した。しかし浮いた予算は装備の近代化に回した。三月事件では首相候補だったがクーデターは中止になった。

宇垣は(1)たたき上げで、(2)長州閥の伝統を受け継いだ。この二つが重要だ。この少し前の大正10(1921)年に、岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎がドイツのバーデンバーデンで長州閥打倒、陸軍の改革、満蒙問題の早期解決の密約を行った。遅れて東條英機も参加し、昭和2(1927)年二葉会に発展した。これには河本大作、板垣征四郎、石原莞爾なども加はった。
これで張作霖爆殺事件と満州事変は二葉会が起こしたものだと判る。

六月十日(金) 二葉会
明治維新は神仏分離や太陽暦の採用など、日本の伝統を大きく破壊した。しかしそのまま江戸幕府を放置したら日本は植民地の危険があったから、明治政府のしたことは功罪相半ば、或いは功が罪より少し大きいかも知れない。その明治政府の伝統を破壊したのが二葉会だった。
宇垣一成は軍縮に努力したし、政府に協調的だった。軍を退いて政治家にもなった。伊藤博文や山縣有朋と同じ生き方だ。それに比べて二葉会は反長州閥を掲げ、たたき上げではなく士官学校卒で卒業年を限定し、しかも陸軍大学卒のエリートばかりだ。
その後の政治は陸軍に左右されるから、陸軍だけではなく明治政府そのものが、二葉会の隠れたクーデターで乗っ取られたといへる。
この本は、第一次世界大戦で総力戦になったから、その対策として二葉会が現れたとする。これはかなり軍部に甘い見かただ。たとへ最初はさうだつたとしても、後に(1)たたき上げではなく、(2)明治政府の伝統を破壊したため、陸軍を暴走させることになる。

六月十一日(土) 第一章「戦場のリーダーシップ」を読んで、教養でリーダーは育つか
この本は前編と異なり、章ごとに執筆者が異なる。章ごとに意見の相違もある。第一章「戦場のリーダーシップ」は野中郁次郎氏。カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、防衛大学校教授、一橋大学教授を歴任。
野中氏は硫黄島の栗林、モンゴル撤退の根本、キスカ島撤退作戦の木村を例に
実践知、あるいは文脈の背後にある関係性を読み取る能力は、どのようにすれば身につけることができるのだろうか。
実践知を形成するための基盤の一つは経験である。とりわけ重要なのは修羅場経験、そして成功と失敗の経験だ。(中略)また、どのような師と出会い、どのような関係を築いたか。つまり、手本となる人物との共体験も、リーダーシップの形成に大きな影響を与える要素であろう。
ここで師との出会ひとは学校ではなく現場と私は解釈した。二葉会はそれまでの先人たちとの関係、つまり師との出会ひを断ち切ってしまひ、明治維新から日露戦争までの経験を捨ててしまった。野中氏は次に
もう一方では教養(リベラル・アーツ)も重要な要素である。
と主張され、一見正しいように見える。といふのは次に
陸軍大学校や海軍大学校が教養を重視していたという話は聞いたことがない。それがバランスを欠いた指揮官を生み、バランスを欠いた戦い方につながった面もあるのではないか。
と書いてあるからだ。私もなるほどそのとおりだ、と半日くらい思ってしまった。しかし教養を重視して実践知が身につくだらうか。ここは伊藤博文、山縣有朋、宇垣一成と二葉会の違ひが実践知の有り無しに分かれたのではないのか。つまり奇兵隊出身の伊藤博文、山縣有朋も、明治期に陸軍に入隊した宇垣一成も一兵卒から上に進出した。一兵卒から始めて士官学校に入校すれば本人が軍隊に向くかどうか、指揮官に向くかどうか判る。陸軍大学や海軍大学も同じで、宇垣一成の時代までは卒業したからといって昇進が早かった訳ではない。上級職に向くかどうかで判断すべきだ。
あと時間の経過とともに二匹目のドジョウを狙ふ人間が増える。或る人が陸軍大学を出て大将になってもそれは本人の能力であって陸軍大学を出た人全体の能力ではない。時間経過による制度の劣化を考慮する必要がある。

六月十一日(土)その二 第二章「リーダーは実践し、賢慮し、垂範せよ」を読んで、役職と地位は責任職たるを徹底すべき
第二章も野中氏の執筆で、第一章と同じく
私はリベラル・アーツのなかでも、特に知についての最も基本的な学問である哲学の素養が社会のリーダーには不可欠だと考えている。(中略)モノではなくコトでとらえる大局観、物事の背後にある関係性を見抜く力、多面的な観察力が養えるのだ。
これは明らかに違ふ。哲学を学んでも、卒業に必須だから仕方ない、単位を取るため退屈だが仕方ない、で終ってしまふ。日本と西洋の違ひ、更には日本、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの違ひを理解しないと時間が無駄になる。日本だったら日本史を学ぶ。更に古典を学ぶ。中国の古典でもインドの古典でもよい。自分の興味のある題材を学び、それだけでは駄目でそこから範囲を広げないと無駄になる。西洋人にとり哲学の感覚は日本人にとりこれらの教材だ。
日本で軍隊組織が駄目になった理由は、階級が人格を表すと思はれてしまったからだ。陸軍大将と云っても、陸軍中将から見れば自分より上だ。その程度の感覚でなくてはいけない。外部の人間にとっては大将でも二等兵でも大した違ひはない。もし誰もが昇進したいと思ふなら、それは上のほうが不公平だからだ。給料と仕事の大変さを秤に掛けて釣り合ふようにすれば、誰もが上を目指すことがなくなる。それをやらないとリーダーに適した人がリーダーになることはない。

六月十一日(土)その三 第三章「失敗の連鎖」を読んで、普段無理をするから批判ができない
第三章の執筆は杉之尾宣生氏で、防衛大学校を卒業後に陸上自衛隊に入り、戦車大隊、防衛大学校教授を歴任し一等陸佐で定年。まづ
失敗からいかに学ぶか-これは、軍隊に限った課題ではない。(中略)いまなお企業不祥事が後を絶たないのは、組織が失敗の拡大再生産という負の連鎖に陥っているからだ。
としてクラウゼヴィッツの「研究と観察、理論と経験は、相互にけっして排除し合ってはならない」について
彼はその根源が「批判精神」にあると喝破し、時の権力と権威を恐れず真実のみを語ることの重要性を強調した。
これを忠実に実行するのがイスラエル国防軍戦史部である。(以下略)
この正反対をやったのが先の戦争の日本軍で、さうなった理由は普段無理をするから批判ができなかった。

六月十二日(日) 第四章「プロフェッショナリズムの暴走」を読んで、元防衛大学校教授が不適切な引用をしてはいけない
第四章は戸部良一氏の執筆で、京都大学で法学博士ののち、防衛大学校教授などを経て国際日本文化センター教授。司馬遼太郎が
本来、三権分立を基本としていた明治憲法は、昭和になってから「変質」した。統帥権が三権の上に立ち、「一種の万能性」を帯び始めた。
と書いたことを採り上げて、その原因を探る。イギリスのサミュエル・ファイナーを引用し
ファイナ-によれば、軍人にはもともと政治化し政治に介入する内在的な傾向があるという。(中略)彼らは国家の後見人、国益の守護者を自任し、(中略)彼らが考える国益を政府が軽視ないし無視すると、それを矯正しようとして政治に介入する動機を持つ。
この主張には反対だ。国民だってもともと政治化し政治に介入する内在的な傾向がある。軍人だけ特別扱ひしては駄目だ。引用は更に続く。
しかし、動機だけでは軍人は政治に介入しない。実際に政治に介入した軍人は、動機に加えて政治介入の意欲を持っている。その意欲は、戦争の敗北などによって国家に重大な恥辱が加えられたり、軍人の威信に大きな打撃が与えられたり、軍人が社会から厳しい批判や軽蔑を浴びたりして、軍人の不満や憤激が昂じた時に大きくなる。
これは絶対に反対だ。国民だって真面目に働いても近くに競合会社ができて倒産したり失業することがある。だからといって公共施設に爆弾を仕掛けたり犯罪行為をしてよいことには絶対にならない。軍人だって同じだ。だいたい「戦争の敗北などによって」といふのは軍人が悪いのではないか。戸部氏の引用は一見何でもないように見えて、政治に対する脅しだ。軍人の威信に打撃が与へたり、社会から批判や軽蔑を浴びると介入するぞ、と。防衛大学校教授を勤めると自分も軍人の一員であるかのやうな錯覚を持ち、このような引用に至るのだらう。本物の自衛官は責任と自覚があるから、そのような気持ちは少しも持たないが、その周りの人は持つ。戦前に新聞が戦争を煽ったのと類似してゐる。次いで
ただし、動機と意欲があっても、政治介入には至らない。(中略)ファイナーは、その機会を、政治体制に対する国民の支持が弱まり、いわゆる正統性が動揺した時と説明している。
最後の「国民の支持が弱まり」の部分は賛成だ。次いで引用は
ファイナーの仮説を当時の日本に当てはめてみよう。
まず、第一次世界大戦後の平和主義的ムードと対外的脅威の大幅減少(ロシア帝国の消滅)とが、軍人軽視の風潮を蔓延させた。(中略)軍縮が軍人の生活を脅かし将来への不安を募らせた。こうして軍人は一九二〇年代に大きなトラウマを負い、政治介入の意欲を持つようになった。
これは絶対に反対だ。先ほども書いたやうに生活を脅かされたり将来に不安があるのはどの業界も同じだ。私はこれが原因で政治介入の意欲を持つやうになることは100%無いと思ふ。515事件や226事件は東北地方の農家を中心に兵隊の実家が悲惨な目に会ひ、総力戦を戦へないと思ったからではないのか。次に
一方、昭和三年(一九二八)、初めての男子普通選挙が実施され、(中略)それと並行して政党政治の弊害も際立つようになった。選挙結果によって政権が移動しないこともあって、政権争奪のために与野党間で腐敗・汚職の暴露合戦が繰り広げられた。
選挙結果と政権交代が連動しないことは、暴露合戦の原因になるだらうか。戦前も議席の一番多い政党に政権を任せることがある程度まで進んでゐた。議席の一番多い政党を首相に指名することがよいかどうかは一長一短がある。短所は三権分立にならない。長所は選出基準が明確なことだ。戦後だって昭和二十三年の昭電疑獄事件で民主自由党が倒閣をねらって不正を暴露したため、自由党元幹事長大野伴睦、社会党元書記長西尾末広が逮捕され、芦田内閣は総辞職した。
戸部氏がなぜ戦前の制度を批判し戦後を擁護するかは、防衛大学校教授だったからではないのか。公務員として給料を貰った以上、戦後の体制には甘くその分、戦前の制度を批判することで帳尻を合はす。

六月十二日(日)その二 第五章『「総力戦研究所」とは何だったのか』前半を読んで、机上演習の後にすべきことがたくさんあった
第五章は、土居征夫氏といふ通産省に入り局長で退職した人が執筆した。昭和十六年に新設された総力戦戦略所について
総勢三五名、平均年齢三三歳の若きエリートたちが、(中略)次代を担うリーダーとして各省庁、民間企業、陸海軍から選抜をされ、(中略)総力戦研究所は、内閣直轄の文民機関である。(中略)研究生三五名のうち軍人は五名しかいない。
民間企業からも五名だからほとんどが官僚だ。各省庁は将来の大臣、次官と目される人物の参加を求められたとあるが、平均三十三歳の時点で将来、大臣、次官と目されるかどうかが判るといふのは官僚主義の典型だ。陸軍と海軍は陸軍大学校や海兵学校の卒業順位で退役までの人事が決まった。それと変はらないではないか。
そもそも陸軍は、昭和一五年(一九四〇)三月時点で支那からの自主撤兵方針を固めていたが、ドイツ対英仏の戦いが急進展し、(中略)三国同盟が結ばれてから事態は変化した。同年一〇月に北部仏印進駐が実施されたが、参謀本部では失態を治癒するため主要幹部が更迭され(筆者の父土居明夫も参謀本部改革のため、情報畑から異例の作戦課長に発令された)、一一月には中国に対し長期持久戦を覚悟して兵力拡大を抑止する方針が決定する。
中国から自主撤退を固めてゐたのに変化したのなら、変化させた連中の責任は重大だ。
開戦の四か月前に、総力戦研究所は机上演習を行った。
日米戦に突入した場合の船舶消耗量を月間一〇万トン、年間一二〇万トンと予測した。(中略)つまり、計算上年間六〇万トンは足りないことになる。(中略)この時点で早くも彼らは、「日本は開戦できない」という結論を出している。所員の指導で演習は続けられたものの、演習を続けるほど、研究生たちは「日本必敗」を確信していった。事実、彼らの分析結果は、後の太平洋戦争における戦局の推移を、真珠湾攻撃と原爆投下を除いてほぼ正確に予測していたのである。
ミッドウェイ敗北とインパール作戦と沖縄戦とソ連開戦を予測してゐたか、と質問したくなるが、この演習は日米戦だけでソ連は含まれてゐないといふことで先に進まう。その成果は
八月二六日からの二日間、首相官邸報告会において、近衛首相、東條陸相ほか各大臣が居並ぶなかで発表された。飯村所長の講評が終わると、(中略)東條陸相が立ち上がり、次のように発言したという。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまで机上の演習でありまして、実際の戦争というものは君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。(中略)なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに郊外してはならぬということであります」
東條の真向かいに座っていた前田勝二によれば、その表情は蒼ざめ、研究生たちの自由闊達な議論が政府や軍部批判に及んだ時はこめかみが心もち震えているように見えたという。
ここで大切なことは、日露戦争は当時勝てるか引き分けと見られた。アジアのロシア軍と日本軍なら日本が勝つし、日本軍は莫大な機密費を使ってレーニンの反政府運動を支援した。日英同盟はあるし、アメリカに外債を売った。適時にアメリカに調停を頼むといふ目算もあった。
今回起こるであらう戦争と日露戦争のときの違ひを懇切丁寧に説明すべきだった。或いはすぐに結論を出すのではなく、我々に勝てる方法を研究させてください、といふべきだった。間違っても政府や軍部批判でこめかみを震はせてはいけない。
ミッドウェイとガダルカナルの後に、日本のすべきは停戦だった。総力戦研究所は停戦の提案をすべきだった。石原莞爾は中国の日本軍を撤兵すれば、米英側は戦争を続ける理由が無くなるから停戦に持ち込めるとみた。石原は満州の日本軍は撤兵対象にしてゐないと思ふが、敗戦が濃厚な時期だったから含めてゐたかも知れない。その前の時期だったらソ連に満州の共同警備を持ちかける方法もあった。日本軍がソ連国境に張り付いたため、ソ連は独ソ戦で膨大な犠牲者を出した。満州に侵攻するおそれと対策を総力戦研究所は政府に提言すべきだった。

六月十二日(日)その三 第五章『「総力戦研究所」とは何だったのか』後半を読んで、ほとんど土居氏と意見が一致する
後半で一旦は土居氏と意見が一致する。
日本におけるリーダーの劣化は、実に、明治期から始まっていた。これについて、実業家・政治家の永野護(カッコ内略)は次のように述べている。
「明治維新前における日本の教育目標は、武士としての人間完成にあったが、明治以後はいたずらに欧米の物質文明を模倣することに急なるあまり、(中略)その人生観は立身出世に主義に堕するに至ったのです。(以下略)」
これは賛成だ。賛成ではあるが、なぜ立身出世になるかと云へば、そこに責任量と待遇の不均衡があるからだ。西洋猿真似に走るあまり不均衡を無くすことを忘れた。このやうに云ふと明治維新前は均衡だったのかと云はれさうだが、あれは均衡の堕落したものだ。均衡は放置すると堕落する。次に
哲学者で京都大学教授の高山岩男は(中略)大正・昭和期に入ると「軍部は人もなげな態度で暴走し、官僚は法匪となり(以下略)」
を引用する。陸軍大学校、海軍大学校の問題点を指摘ののち
高山岩男は、戦前の政治家、行政官僚、法曹家を育てた帝国大学等の法学教育も、法律解釈の末端技術面に専念した欠陥教育であったと喝破した。その帝大教育の悪弊は、高等教育全体の問題として今日まで続いている。
ここは完全に賛成だ。一方で対策として
リーダーの養成課程で最も必要なのは、リベラル・アーツ教育の拡充である。
ここは反対だ。リベラル・アーツなる奇妙なカタカナ語の真似が駄目なことは第二章で述べた。一方で
幕末の志士上がりの明治維新の指導者たちは、幼児からの四書五経の素読や読み書きそろばん、さらには剣術や坐禅など、日本的なリベラル・アーツ教育の機会に恵まれて、近代日本を建設するリーダーとして育てられた。
ここは完全に同感だ。更に
高山岩男が指摘した経学、史学、詩文の重要性も再認識する必要がある。「経学は、中国の四書五経を中心とするものであるが、天下の治乱、国の盛衰興亡のよって来たる道理を明らかにするもの、今日の言葉でいえば政治哲学とも言うべきものであった。史学はこの道理を具体的に実証せる歴史の学であり、(以下略)」
も完全に賛成だ。土居氏と意見の一致が多い理由は、土居氏は官僚になったものの二十九歳で退職し商工中金理事(この時点ではまだ天下りかも知れない)、NEC取締役、企業活力研究所理事長、城西大学特任教授を歴任された。その多様性が理由であらう。NECはコンピュータ業界なので私と同じ業界だ。私は平社員、土居氏は取締役、執行役員常務と若干の違ひはあるが、まあ二等兵と大将みたいなもので、外部から見れば同一だ。次に
第二に必要なのは、現場主義型のリーダー育成システムの確立である。日本では、戦前においては軍隊で、戦後においては製造業の現場から、叩き上げのリーダーが育った。日本社会は歴史的に、大衆層のなかから叩き上げのリーダーを輩出する構造を持つ。
これも完全に同意見だ。だから士官学校や海兵学校は最悪の教育方法だった。宇垣一成の経歴が一番良い。最後に
道州制を含めた地方分権とリーダー人材の多元的供給システムの確立は、将来の日本のため不可欠の要請であるといえよう。
のうち後半は賛成だが、道州制はどうか。西洋化圧力の高い地球上において道州制を採用すると西洋化競争に陥る虞がある。長い期間で見れば西洋化の弊害は大きいことが判る。しかし短期間では道州で西洋化を競ひ、気が付いたときは社会が崩壊してゐたといふことになりかねない。

六月十三日(月) 第六章『「最前線」指揮官の条件』を読んで、
第六章は河野仁氏の執筆で、ノースウェスタン大学博士課程から、43歳で防衛大学校教授、50歳で防衛省人材育成企画官を兼務。専門は軍事社会学。まづ
「日本兵は、なぜ、あんなひどい死に方ができたのだろうか」
太平洋戦争に従軍したアメリカ軍兵士は、日本軍兵士による白兵突撃をバンザイ突撃と呼び、だれもがこのような疑問を抱いた。(中略)降伏するという選択肢が与えられていたアメリカ兵に対し、日本兵にそれは許されなかった。たしかに、陸軍の『戦陣訓』では(中略)捕虜になることを禁じている。
『戦陣訓』は昭和十六年1月8日に陸軍大臣東條英機が訓令(陸訓一号)として示達した。このようなものを出せば、日本兵は無駄に死ぬことになるし、敵の捕虜は虐待することになる。『戦陣訓』以外にも日清戦争中に第一軍司令官の山縣有朋が清国軍の捕虜の扱ひの残虐さを問題にし、捕虜になるなら死ぬべきだと訓令したといふ話があるが、これは西洋の条約の範囲内か範囲外かの違ひで、欧米列強と戦争をするときには欧米の条約に従はなくてはならない。無理をするからいろいろな弊害が現れたが、これもその一つだった。
このような惨事になった理由は、明治維新のときの神仏分離にあると思ふ。神仏習合に従った豪族や農民は繁栄し、従はなかった者は少しづつ没落した。その歴史を見落とした。

六月十五日(水) 第七章から第九章
第七章では石原莞爾、第八章は辻政信、第九章は山口多聞を特集してある。石原莞爾は
だれかが上から引き上げてやらない限り、要職に就くことは難しい

といふ。無欲なところは石原莞爾の特長で、だから226事件の後に、本人を含めて陸軍上層部は全員予備役に退くことを提案した。一方で現役時代に東亜連盟を結成したり予備役時代には東久邇宮に会見して組閣と平和交渉を提案するなど、何もしなかった訳ではなかった。
辻政信は戦後に悪い印象をばらまかれた。私もそれを信用し辻政信には悪い印象しか持たなかったが、数年前に石原莞爾を調べた時に石原が辻を評価してゐた。或いは戦後に流布された辻の評価は、当時、親米、バンドン会議、親ソと三つあった日本の世論の中で、親米派が行なったのかも知れない。
辻は戦後、衆議院議員を4期、参議院議員を一期務めた。Wikipediaによると
追放解除後の1952年(昭和27年)に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党鳩山派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。
政治家になった辻は衆議院議員4期目の途中だった1955年(昭和30年)にソ連に視察旅行に出かける。このとき辻はソ連のさまざまな人と会話をして、ソ連の実情を看破した。また、ノモンハン事件で対決したジューコフと辻は極秘に会談し「アメリカが日本に小笠原列島と沖縄を返還したら、ソ連は千島と樺太を返すだろう」などの内容を話し合った。辻は次のソ連の政権はジューコフとフルシチョフで争われるだろうと予想したが、実際にそうなり、フルシチョフが政権を握った。
同年、岸信介攻撃で自民党を除名されて議員を辞職。参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。
典型的なアジア派だ。その後ラオスで行方不明となる。このときも辻は北ベトナムでホー・チ・ミンと会談することを望んでいたさうだ。失跡の理由をWikipediaはフランス軍将校の関与により処刑としてゐる。
山口多聞は本来、機動部隊指揮官や連合艦隊司令長官になるべき人材だったが、海兵学校の卒業年次で有効に活用されなかった。日本もアメリカみたいに必要なときだけ中将や大将にして、任務が終ればもとに戻すべきたった。日本は日本の実情に合はない階級や指令系統を作り、それに負けたと云へる。或いは明治時代には合ってゐたのに既得権者(高級将校や古参兵)の都合のよいように堕落していった。

六月十八日(土) まとめ
教養でリーダーが育つかどうかは重要なので、再度取り上げてまとめとしたい。リーダーの能力とは気動車のディーゼルエンジンみたいなものだ。バスでもよいが、バスのディーゼルエンジンは出力に余裕があるから例に合はない。二十年くらい前までは鉄道のディーゼルエンジンは余裕が無かった。昭和四十年代前半は登り勾配で速度が極めて遅かった。昭和五十年前後に冷房を搭載すると出力をそれにも取られた。室内灯やその他の電力もディーゼルエンジンの出力を消費した。つまりディーゼルエンジンの総出力こそすべての源泉で、この総出力こそリーダーの能力だ。
走行なり冷房なり一つのことに出力を消費するより、全体で消費したほうが出力は上がる。ディーゼルエンジンは製造時に出力が決まるが、人間は努力すれば出力を増大させることができる。ここで目的は可変である人間の出力を増大させることであって、出力を全体で消費させることではない。教養を学ぶといふのは全体で消費することだ。しかしそれでは総出力は増へない。人間は可変だから西洋の合はない哲学から入るのではなく古典なり歴史なり身近なものから入り、その範囲を広げることが総出力の増大につながると思ふ。(完)

追記六月二十三日(木) 第十一章合理的に失敗する組織(その一)
第十一章の著者は菊澤研宗氏。日本で商学博士ののちニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・7ビジネス客員研究員、防衛大学校教授を経て、私立大学教授。戦艦大和がなぜ沖縄出陣といふ無駄なことをしたかについて、空気の支配だとする。まづオリバー・E・ウィリアムソンを引用し
すべての人間は完全に合理的ではなく、また完全に非合理的でもなく、(中略)また、人間は機会があれば(中略)利己的利益を追求する機会主義的存在でもあるとする。(中略)それゆえ、人間の交渉、取引には、さまざまな駆け引きに伴う多大な無駄が発生する。この無駄が取引コストである。
なるほどそのとおりだ。もし不正があった場合に
人間は限定合理的なので、不正を正直に公表すると、事態をすぐに理解できない人がいる。(中略)それゆえ、軌道修正するのに長い時間とお金をかけて地道に説得する必要がある。(中略)このコストは会計上に表れないコストであり、この意味で見えないコストである。しかし、これが人間を不条理に導くのだ。
なるほどこれも同感だ。日本だけではなく西洋でも程度の差はあっても同じだった。さてそれではどうすればよいか、となるがその前に
戦前戦後を通じて人間関係を重視してきた日本人の組織では、人間関係上の取引コストが発生しやすく、人々も容易にそれを認識する。特に、日本軍組織は、メンバーが人間関係上の取引コストを即座に計算するため、空気が発生しやすく(以下略)
まづ日本と西洋はどこが違ふか、西洋でもアメリカ、ドイツ、フランス、イギリスでは異なるはずだ。その上で、日本でも民間と軍隊ではどう違ふのか。民間でも、日本は課長代理、課長、部長代理、部長、事業部長代理、事業部長と階層になってゐる。これらを少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐と変へると共通だ。或いは主事(技師)、副参事、参事、理事、常務理事は階級そのものだ。それらの分析がないのは菊澤氏がニューヨーク大学客員研究員を経歴したため、国内事情に疎いのと、西洋の物差しで見るようになったためではないだらうか。
次に別の人を引用し
一八世紀に活躍した哲学者、イマヌエル・カントによれば、人間は、外部要因に対して刺激反応し、外圧の影響を受けて動物的・衝動的に行動する。これが人間の他律性である。取引コスト理論など新制度派経済学は、制度に依存するという人間の他律性に着眼するのだが、それには限界がある。
一方で、カントは人間には外圧に抵抗する意志があり、その意志に従って自由に行動することもできるとする。
私は人間の内面には本能として食糧確保や怠惰があり、そこから欲が発生するし、一方で同じく内面に意志があり、意志自体は中立だ。しかし風が吹くのに南風があれば北風もある。要はばらつきがあり良い意志と悪い意志が生じる。それを良い方向に誘導するのが社会であり文化だといふ立場だ。だからカントの外圧=悪、自律=良とは逆で、自律=悪及び中立、他律=良だと思ふ。
しかしカントの説も私の主張もそれほど違ふ訳ではない。要は人間には悪い心と良い心の二つがあるといふことだ。つまり自分で考へればすぐ判ることをわざわざ西洋人の説を引用する必要はない。ここに菊澤氏がニューヨーク大学客員研究員となったことの弊害が現れる。

六月二十四日(金) 第十一章合理的に失敗する組織(その二)
カントで一つ気になるのは自由を過度に持ち上げることだ。一八世紀と今は違ふし、その間に米ソ対立があった。カントが自由を持ち上げたのではなく、二十世紀のカント研究者が自由を過度に持ち上げたのだらう。
日本軍は、設立当初はメンバー同士が自由闊達に議論する組織であった。ところが、時間の経過とともに制度が完備され、特に人事制度が明確になると、制度上、どうすれば昇進できるのかが明確になった。
こうした状況で、昇進制度に忠実な他律的エリートたちが育成され、実権を握っていった。彼らは、前例主義を踏襲し、既定路線を走ることにのみ汲々とし、けっしてみずからの意志と責任の下に行動することはなかった。
これは今の官僚制度や政治家や企業就職者にも当てはまる。それではどうすればよいかについて菊澤氏は
この意味で、海軍は、不条理に陥ったエリート集団の典型であった。取引コストにとらわれた人々の、他律的な意思決定に対し、一石を投じることのできる人物、それが、自律的な意志を実践する「啓蒙された人」である。このようなリーダーが帝国海軍に数人いれば、組織の不条理から救われたはずである。
この主張はまったく解決法になってゐない。組織がさういふ仕組みだから取引コストにとらわれた人々ばかりになったのであって、それを放置して「このようなリーダーが帝国海軍に数人いれば」と云ってみたところで不可能だ。解決法としては、年功序列の硬直した組織を破壊すべきだ。それには年功序列に依らない方法で上位に人を送れるか、軍人、政治家、民間人で作った組織を軍の上部に置くべきだ。
組織論とは別に、サイパン島が陥落ののちは日本の敗北は必須だから、停戦に持ち込む方法を考へるべきなのに、政治家も軍の上層部も考へなかった。つまり根本目的のない戦争の継続は下位組織まで目的のないことを繰り返すやうになる。(完)


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