八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その七)1.井沢元彦氏「英雄の日本史 上杉越後軍団編」、2.NHK歴史への招待「信玄と謙信」

平成二十八年丙申
七月二十二日(金) 井沢元彦氏
井沢元彦氏はTBSに入社したものの数年後に江戸川乱歩賞を受賞。退社し執筆活動に専念。英雄の日本史シリーズでは、幕末、源平、信長・秀吉・家康、風林火山を単行本や文庫本で執筆した。
これまで取り上げた本が学者による古文書に基づいた内容なのに対して、この本は当時の状況から考へられる一番あり得ることを書かれてゐるので、参考になる。そこには推測も入るがそれはこれまで紹介した学者の書いた書籍も例外ではない。
この本の前に小説の上杉謙信を一冊読んだ。題名だけで貸し出しを申し込んだところ小説だったのだが、忍者が出て来たりエロ小説まがいのところがあったり、あとがきでは謙信は躁うつ病だったとまで書いてある。当初はこの本も少し取り上げて批判しようと考へたが、このやうな本に言及すること自体、ホームページへの穢れなので無視し、次は井沢氏の本を取り上げることにした。

七月三十日(土) 義兄政景
上杉定実の死後、将軍から毛氈鞍覆と白傘袋の使用が認められたが
膨大な金品が将軍家に献上されたに違いない。そんな経済力がどこにあったかといえば、収穫量の多い米の他に、青苧という特産品があった。これはカラムシという別名でよく知られているが(中略)昔は庶民の着物の材料といえば、これと麻だけだった。絹は高級過ぎて、庶民は使えない。麻はゴワゴワして特に冬などには着心地の悪いものであったから、カラムシのほうが尊ばれていたのだ。
それが今はまったく忘れ去られたのは、木綿がそれにとって代わったからだ。綿はインド原産の「綿花」を採るための植物で、(中略)戦国時代の終わり頃から、日本でも普及するようになった。その主要な産地はどうやら三河国から尾張国であったという説がある。
カラムシの他に銀山もあった。長尾政景の反乱については
謙信が領土拡張のためではない、義(正義)のための戦を続けることができたのは、この豊富な財源があったからなのだが、だからこそ越後国主の座は自分のものになるべきだと、謙信の姉婿の長尾政景は考えたのだ。
なるほどこの辺は古文書がないから学者はなかなか云ひ難い。翌年、関東管領が越後に亡命する。
謙信の父長尾為景が生涯敵とし、結局は討死に追い込んだ関東管領(上杉顕定)の一族が、なぜ謙信に保護を求めてきたのか。
として、上杉顕定には実子がなく一族から養子に来ていた二人の内の一人が跡を継ぎ、もう一人が反乱を起こして関東管領になった。五十七歳で嫡男が誕生したが二年後に亡くなった。跡を父の要旨が継いだが古河公方の子で上杉一族では無かったのでクーデターを起こして関東管領になった。なるほどこの話は井沢氏の著書で初めて判った。

このあとこの本は、宇佐美、斎藤、直江など多くの国人について書いてゐる。これらについては割愛したい。

七月三十日(土)その二 NHK歴史への招待第六巻「信玄と謙信」
この本はまづ武田軍について騎馬隊、狼煙、棒道、新衆(土木工作隊)に触れたあと
信玄は金山を掘り、産出した金で武田軍団を賄っていたといわれる。当時、採掘の技術では武田のこの金掘衆に及ぶものはなかった。この技術を信玄は城攻めに利用している。
武蔵の松山城攻めの時には、甲斐・信濃の鉱山から鉱夫を数百人呼び集め(中略)一ヵ月ほどで城を半分以上も掘り崩して落城させている。
ここで注目した理由は、謙信がカラムシと銀山で軍資金を得たのに対し、信玄は金山で得たことだ。次の章で謙信について
生涯に七十回余り戦った謙信は、その莫大な軍資金をどのようにして得たのであろうか。(中略)謙信は、現在の新潟県南魚沼郡六日町、かつて上田莊と呼ばれた地域を支配していた従兄長尾政景を攻めた。(中略)上田銀山である。
そればかりか
謙信は越後上田莊から、佐渡へ金掘りの人手四百人を送ったという。
(完)


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