八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その六)池亨、矢田俊文氏編「定本上杉謙信」

平成二十八年丙申
七月十七日(日) 長谷川伸氏「長尾為景と晴景」
次は池亨、矢田俊文編「定本上杉謙信」を読んだ。編者を含む十五人がそれぞれ題を付けて執筆する。まづは長谷川伸氏「長尾為景と晴景」。
室町期の越後は、一国レベルでいえば、鎌倉期の越後入部以来、地頭職の系譜を引く阿賀野川以北地方を中心に割拠する国人領主と、南北朝期以降越後に入部し、一族と守護代家が地域支配を分掌した守護上杉氏という自立した地域権力が、互いに並び立った時代であった(中略)しかし、上杉房能が守護になると、状況は一変する。
ここで長尾為景が守護を敗死させるいふのが他の書籍だが、実際はその前段があった。
明応九年(一五〇〇)の本庄氏の乱では、上杉房能の情勢判断のまずさから、本庄氏と組んだ黒川氏の裏切りを察知できず、守護方は大敗を喫し、その権威と信頼を失わせる結果となった。
その七年後に長尾為景が守護を滅ぼし、上杉定実を擁立する。

七月十七日(日)その二 西澤睦郎氏「謙信と越後の領主」
次は西澤睦郎氏「謙信と越後の領主」で北条高広について
上野国厩橋城在番となった(カッコ内略)。これを信認の厚い北条高広を前線に送り込んだという好意的な見方もあるようだが、むしろ北条氏の在地性を剥奪するいわば「転封」に近い処置だとも考えられる。
その後、北条高広は謙信に背き、越相講話ののち謙信に再び帰服するから、なるほどさうかも知れない。

七月十七日(日)その三 市村清貴氏「謙信と都市」
次は市村清貴氏「謙信と都市」を見よう。
謙信期における上杉氏関係史料を概観すると、そこには他の戦国大名に見るような(中略)直轄領からの年貢増徴や一国平均の段銭長州などに力を注いで財政基盤の安定化をはかっていることをうかがわせるような史料がほとんど見あたらないのである。(中略)謙信は越後国内戦だけでなく、関東・北信濃・北陸へと数え切れないほどの遠征を行っており、(中略)謙信は、その生涯を通じて都市政策およびそれに関わる流通政策に力を注いでいる。すべてではないにせよ、都市を支配することからくる収益が謙信財政を大きく支えていたことは間違いあるまい。
府内、柏崎、越中国の都市法を紹介ののち
中世越後における二大港湾都市ともいうべき府内・柏崎の支配と、そこでの都市法のエッセンスを北陸へ延長・拡大することによる北陸湾岸都市の支配。
越後から能登までという、他の戦国大名には例のないほどの長い海岸線を掌握し、日本海交易の拠点となっている港湾都市を支配することからくる「海の収益」が、謙信の北陸遠征の真の目的ではなかったか。
謙信死後に春日山城内に残されていた多量の黄金のなぞを解くかぎは、このあたりにあるのではないだろうか。


七月十七日(日)その四 小林健彦氏「謙信と朝廷・公家衆」
小林健彦氏「謙信と朝廷・公家衆」でまづ注目すべきは
守護は室町幕府においては地方行政官(中略)である一方、幕政に参与する重臣的な存在としてもあった、
ところが
房定は、前代の房朝までの守護とは違い、在京の所見はごくわずかになり、在国化するようになる。
次に上洛は謙信ばかりではなく
永禄二年には、謙信の他にも織田信長や道三の子斉藤義龍の上洛があった。
関白の近衛前嗣について謙信ばかりに付いたのではなく
永禄五年に越後より帰洛するが、この後、織田信長と結び、九州諸大名間や本願寺などとの和議を進め、(中略)さらに信長の甲州武田氏攻めにも同行しており、信長死去後は徳川家康を頼って浜松に下向した。常に期待できそうな大名と結びつこうとしていたのである。


七月十七日(日)その五 黒田基樹氏「謙信の関東侵攻」
黒田基樹氏「謙信の関東侵攻」には
謙信の関東侵攻の背景には、関東管領上杉憲当を庇護していたことがあったことは間違いないが、それが直接的な契機であったわけではない。
それは憲当が謙信の庇護を受けてから、関東に侵攻するまでに八年間あるからだと黒田氏は云ふ。
その間、北条氏による上野攻略が着々と展開され、相次いで国衆の従属がすすめられた。永禄元年には上野北部の有力国衆沼田氏の内訌によって同氏は没落、(中略)さらに同二年十月には吾妻郡岩櫃領・嵩山領の斉藤氏も従属し、上野一円が北条氏の勢力下に収められるに至っている。
とりわけ沼田氏の内訌は、内実は上杉氏派と北条氏派との抗争によるものとみられ、敗れた上杉氏派の前当主万喜は謙信を頼っている(以下略)
氏康の代には越後への侵攻もあり、黒田氏はそれを永禄初頭と断定する。謙信は永禄三年に
関東に侵攻すると(中略)ほぼ上野一国を勢力下に収めている。
そして翌四年に北条氏の本拠相模小田原城攻略のための進軍に際して、(中略)北条氏の勢力圏は一気に武蔵河越城まで後退している。
そうして閏三月、謙信は鎌倉鶴岡八幡宮の社前において、病気であった憲当からその名跡を継承し、山内上杉氏の当主となった。
謙信人生最大の晴れ舞台であった。このまま越後に帰国しても関東管領に皆が従ふと謙信は考へたことだらう。ところが謙信が兵を引くと北条の謀略が開始され、次々に謀叛者が出た。この後は一進一退が果てしなく続く。黒田氏はまとめで
北条氏によって擁立されていた古河公方足利義氏を認めず、替わってその庶兄藤氏を新たに公方に擁立した。(中略)公方義氏-管領北条氏という形式をとった、すでに北条氏によって構築されていた一定の政治的秩序を踏まえ、それに対抗しうる名分を備えるためのものである。
北条は侵略者で、謙信は秩序維持者といふのが私のこれまでの見解だったが、北条も管領を名乗ってゐたとすると、上杉と北条は同じ戦略だったことになってしまふ。これでは謙信軍が関東に進出すれば皆がなびくし、越後に帰国すれば北条になびいてしまふ。(完)


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