八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その五)新田次郎・安西篤子・半藤一利氏他「上杉謙信」

平成二十八年丙申
七月十四日(木) 第二章「信長を戦慄させた信玄と謙信の死闘」
次は新田次郎・安西篤子・半藤一利氏他「上杉謙信」を読んだ。平成二(1990)年の出版だからその後の古文書発見や学説で間違ひとされる部分もある。第二章は新田次郎氏が書かれた。
当時の戦争は、食糧は現地調達ではなく、全部自弁でした。しかも、兵が自分で持っていかなければならなかった。
私の先祖は諏訪家の郷士で、信玄に従って、先方衆の一人として戦に出ましたが(中略)お米の粉やそば粉、とうもろこし粉などを車に付けてひき、あるいは馬の背に乗せて戦いに行ったようです。ですから当時の戦は一カ月も戦うとやめて引き返さなければならなかった。食糧が不足するからです。現地調達のようなことはあまり行われなかった。
当時は戦というものはプロ同士がやるもので一般の民衆は略奪を受けるべきではないという考え方があったからです。

とある。そのため武田信玄は軍用道路を作った。また
小城を一つ取るのでも、まず調略を使います。(中略)信玄は調略によって味方に付けたものは、あまり差別しなかった。ただ当時の習慣として戦いがあれば先方衆として真っ先に出なければならないから、いちばん損害が多い。しかしまた逆にそれをまじめに努め成果をあげれば、やがて重く用いられるようになる。その典型的な例は真田一族です。
しかし、一度味方になりながら裏切った場合は徹底的な報復手段を取った。この典型的な例は大井一族で、一族皆殺しにされています(二度裏切った豪族さえ殺さなかった謙信の場合と対象的です)。


七月十四日(木)その二 第七章『ドキュメント「川中島戦記」』
第七章は株式会社文藝春秋の編集長、専務取締役などを勤め、自身の著作も多い作家の半藤一利氏が書かれた。
参謀本部が編纂した『大日本戦史』には、桶狭間から大坂の陣まで、戦国の主要合戦がすべて研究されているにもかかわらず、川中島合戦だけは省かれている。全面的信頼に足るべき資料がないため、でもあったろうが・・・・。
いまに残されているのは、講談まがいの、いわゆる軍談の類ばかりである。

とある。だから『大日本戦史』のその前に書かれた
越軍の死者は三千四百、負傷六千、計九千四百であり、甲軍の死者は四千五百、負傷一万三千、計一万七千五百におよんだ。越軍の損害は七二パーセント、甲軍の損害は六二パーセントであった。

といふのは眉唾物であらう。川中島で激突した理由を半藤氏は
甲斐は(中略)わずか二十万石。(中略)四十万石の生産量を持つ信濃の平野を、わがものに占領しないことには、甲斐は軍事的にも経済的にも、自立が困難だったのである。

だから越後まで侵略するつもりは無かったといふのが半藤氏の主張だ。一方で信玄は海を目指したといふ別の人の著書もあり、後ほど読み比べてみたい。信玄について半藤氏は
目的・目標がはっきりしないままに戦った多くの戦国武将のなかにあって、その目的意識をしっかり持って戦争指導を行った近代的リーダーとしては、織田信長と信玄は双璧であるように思われる。
いっぽうの謙信は(中略)そうした信玄の戦略を見抜けるだけの眼力を持つ名将であった。
信玄軍に敗れ、謙信を頼って信濃から逃げてきた村上義清との問答が、『名将言行録』に残っている。信玄との戦いぶりを聞かれた義清が、
「信玄は十里働くところを三里、あるいは五里働きます」
と答えると、謙信が言ったという。
「信玄がそんなふうに用心深いのは、要するに、国を多く取ろうとする考えからだ。自分は国を取ろうとか、後途の勝ちを得ようとは考えない。ただ弓矢の正しきによって戦うばかりである。当面する戦闘から決して引き返さないのを主義としている」
つまり、ここに言う謙信の手本は源義経なのである。

二十代の人間なら当然あり得る考へだ。その一方で仏教に深く帰依しながらなぜ戦を好むのかは、大乗仏教の欠点かも知れない。仏教では心の構造と心の動きが重要だが大乗仏教だけだと現世利益、或いは修行そのものが目的になってしまふ。第七章の特長は先の戦争を例に取り上げ、孫子やクラウゼウィッツを引用する。まづ
用心深い信玄は、索敵のため八幡原に斥候を何人も出していたが、運悪く霧の中で上杉軍に捕らえられ、情報をまったくつかめないでいた。敵情まったく不明のまま味方の奇襲成功を来たいするところは、太平洋戦争におけるミッドウェー海戦の日本軍とよく似ている。(中略)武田軍はさながら、南雲忠一中将指揮の機動部隊のごとく、であった。

二十五年くらい前までは、ごく一般のありふれた内容だ。どこにも間違ひはどこにも問題点は無い。ところが村山富市が社会党を消滅させて以降は平和運動が変質し、米英仏蘭は世界中のほとんどを植民地にしても正しくて、日本は間違ってゐたといふ奇妙なものになった。その感覚で読むと、軍国主義を賞賛したとなってしまふ。次に、信玄が信濃の四十万石に目を付けたことについて
いわば信濃の肥沃は甲州の生命線---昭和日本の満州に当たる、といっていい。

これも今だったら侵略戦争を正当化するのかと批判する人間が出るだらう。
謙信は上杉家の重宝「日の御旗」を毘沙門堂より出してきた。(中略)謙信の闘志はすでに満ちあふれている。(中略)日本陸軍の『統帥綱領』にも言う。
「古来、軍の勝敗はその軍隊よりむしろ将帥に負うところ多し」

謙信軍は妻女山、信玄軍が茶臼山に陣取ったことについて
『孫子』に言う。
「善く戦う者は人を致して、人に致されず」
常に先手をとり、自分のペースで事を運ぶことこそ重要で、開いてのペースに引き込まれると、手も足も出せなくなってしまうのである。
日本陸軍の『作戦要務令』も説く。(以下略)

山本勘助の啄木鳥戦法について
同じ山本というわけでもあるまいが(中略)山本五十六の連合艦隊司令部がとった作戦と、実によく似ている。

として珊瑚海海戦とミッドウェー海戦を挙げる。半藤氏は川中島合戦は信玄の負けとした上で
それでもなお、戦略的には占領地を保持した信玄の勝ちではないか、という人が多い。しかし、信玄の真の戦略目的は京都進出ではないのか。(中略)日本人は目的・目標感覚がうすい。旧陸軍の『作戦要務令』も、旧海軍の『海戦要務令』も、ともに目的・目標についてふれていない。だから、昭和日本はとどまるところのない進攻作戦を続けた。信玄もこのときは真の戦略目的を見失い、国家をより発展させるためにと、"生命線"満州を確保した日本帝国同様になった。
(完)


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