八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その四)矢田俊文氏「上杉謙信」

平成二十八年丙申
六月二十六日(日) 序章を飛ばして第一章「戦国期越後とその景観」へ
次は矢田俊文氏「上杉謙信」を読んだ。矢田俊文氏は同姓同名が二人ゐる。一人は新潟県新津市出身で九州大学教授。もう一人は鳥取県出身で新潟大学教授。最初はその違ひが判らずとまどったが著者は後者だった。序章は御館の乱を取り上げる。謙信の死後に二人の養子が後継を争った。この本では触れてゐないが、その最中に和解をあっぜんしようとした上杉憲政が景勝側に討たれて亡くなった。上杉憲政は上杉の家系と関東管領職を謙信に譲った。つまり二人の養子から見れば義祖父だ。それを殺したとなると、江戸時代など世の中が安定したときなら取り潰しになってもおかしくない。だからこれ以降の上杉家は好きではなくなった。
そもそも後の時代に徳川家康などが上杉討伐に向かひ、途中で石田三成側が決起したため引き返すことになった。上杉は当然後方から徳川を攻撃しなくてはいけないのにそれをしなかった。そのため関が原で西軍は負けた。西軍が死罪、改易になるなか、上杉は領土を減らされたとはいへ明治維新まで生き延びた。仲間の犠牲の上に自分たちだけ生き残った。だから序章は飛ばして先に行きたい。

第一章では
十五世紀半ば、幕府と地方の関係で大きな変化が起こった。幕府は、段別賦課方式を公田段銭賦課方式から、一国単位に一〇〇貫を賦課する一国百貫賦課方式に変更した。(中略)幕府にとっては一国当たり一〇〇貫文の段銭が手元に届けばよいのであり、(中略)この幕府の権限放棄によって、守護が一元的な一国支配権を手に入れる可能性が生まれたのである。戦国期は十五世紀半ばに始まった。

応仁の乱ではなく、その少し前に戦国時代の幕は開いたのだった。次に
西日本では十五世紀までに、東日本では十六世紀までに集村化が終了する。古代・中世に大きく移動していた集落は、これ以後、現在に至るまで移動していない。(中略)日本列島の集落史を考える時、中世後期は大きな区切り目の時期だったのである。

とある。次の節では十六世紀の越後について
頸城郡絵図をみると、複数のムラを耕地がつなぐように描かれる景観は少なく、多くは耕地と一つのムラが孤立して描かれている。
現在の田は一面に続いていて、どこまでがどの集落の田なのか見分けがつかない。これは、遠くから河川の水を引いてくる用水を複数の集落が利用するために、そのような風景ができあがるからである。(中略)複数の集落の耕地をうるおす河川や溜池による灌漑を十六世紀末まで行なっていなかったいなかったことを示している。(中略)集落ごとにまとまっていて、集落単位ごとに用水体系が完結していたことを表現していると考えられる。
戦国時代の終結がムラを超えた灌漑を築いた。

六月二十七日(月) 第二章「守護上杉房定」(その一、関東出陣)
関東では、永亨の乱と結城合戦のあと、関東管領上杉氏が実権を握っていた。しかし(中略)成氏が鎌倉公方に就任して以後、結城。宇都宮氏など、北関東の領主が(中略)成氏方につくことにより、(中略)対立が深刻になってきた。亨徳三年(一四五四)、公方成氏は、管領上杉憲忠を謀殺する。これにより、亨徳の乱が始まった。
成氏による管領暗殺は、親の仇とばかりやったのかと思ってゐたが、矢田氏の本では別の理由を挙げた。
幕府は成氏の追討を決め、越後守護上杉房定に関東への進攻を命じた。
後に武田は領地を拡大し動員された家臣たちはその恩恵に与ったが、上杉は元の領主に返す。なぜそれでも動員できたのだらうと不思議だったが、守護、地頭は幕府機構の一部といふこれまでの流れがあったからだったことが判る。一方で動員は無償だった訳ではない。
中条定資は(中略)上杉房定より武州への出陣を賞した二月七日付の感状をもらっているが(中略)、守護の発給文書を白井城で受け取っているのである。
この時に白井城で受け取った感状は、翌延徳二年(一四九〇)に所領となって実を結んだ。延徳二年八月十一日、房定は、中条定資に、「去年以来の数度の粉骨」を賞し、黒川知行分の金谷名、並月(胎内市並槻)、宮瀬(胎内市宮瀬)、ひにんかう屋の四か所を、寺社分をのぞいて、「御恩」として与えている。さらに、同年十月十四日には、奥山壮関郷のうち落合分の地を与えている。
太田道灌を殺した上杉定正がどうなったかは気に掛かるところだが、
明応三年(一四九四)十月、上杉定正が落馬により死去して以後は、山内上杉家が優勢になっていった。

太田道灌は人気が高い。上杉定正が落馬とはいへ戦場で死んだことに喝采を送る人は多いことだらう。

六月二十九日(水) 第二章「守護上杉房定」(その二、領主の連合権力)
越後守護上杉房定の関東での活躍は京都でもよく知られ(中略)家臣たちの名前も知られていた。
『蔭涼軒日録』長亨二年(一四八八)七月十日条には、「上杉被官、長尾、石川、斉藤、千坂、平子、この五人古臣なり」(以下略)
とある。文明十年の文書の署判者に、斉藤、安田が加はる。二氏について
斉藤氏は、十六世紀後半になると、城下町を持ち、自らの支配地域に判物を発給する戦国領主となっていく領主である。
安田氏は越後国刈羽郡の毛利一族である。(中略)文明四年(一四七二)、自領の検断権を守護上杉房定に認められている。
とある。これについて矢田氏は
守護上杉房定は、自立した領主を取り込むことによって、守護権力の強化を計ろうとした。(中略)守護独裁ではなく、実態は自立した領主の連合権力だったのである。
とする。守護は幕府が健在のときは威力を発揮する。衰へたから領主を取り込んだのか、衰へたから領主に変化したのか、また地頭と領主の用語の関係が疑問だ。

六月二十九日(水)その二 第二章「守護上杉房定」(その三、武蔵平子氏)
平子政重は田畠を真照寺の寺領とした。この寺は磯子村(横浜)に所在したので、
文明五年頃、平子氏は、現在の横浜市地域に勢力基盤を有していたことが確認できる。
とする。政重とその子は
二代にわたって越後府中で訴訟審理を担当する領主であった。
関東管領上杉定顕と扇谷上杉家が戦った三つの戦闘ののち
狩野為茂は伊豆の領主で、(中略)戦功を報告し、平子氏に屋形(越後守護上杉房定)からの感状発給を依頼している。(中略)伊東九郎も伊豆の領主で(中略)上杉房定から感状を得ている。
山内上杉家と扇谷上杉家の争ひに、越後上杉家からの感状を手に入れた理由は、上杉房定の子が山内上杉に養子に行き、そして関東管領になったためだらう。
なぜ、越後の上杉房定は、相模小田原・七沢(実蒔原の合戦に近臣平子氏を派遣したのか。それは平子氏が相模に近い武蔵本目(横浜市)を本領にもち、維持しようとしていたからであろう。(中略)平子氏は、十五世紀後半から十六世紀前半、本領武蔵本目地域を維持しながら、越後守護上杉房定の近臣として越後府中を活動拠点にする領主であったが、十六世紀後半になると、本領武蔵本目の維持をあきらめ、城を構え、軍隊を動員できる越後の領主となったのである。
時代は移り
各地の領主が本拠を移動させ、山城を築き、山上やその麓に住むようになると、自らの強固な支配地域を築くのが第一の課題となる。戦国期の第一期の権力のあり方では対応できない社会になってきたのである。


六月三十日(木) 第三章「父、守護代長尾為影」
明応三年(一四九四)、四十六年間という長いあいだ越後を支配していた上杉房定が死去した。代わって守護に就任したのは、子の房能であった。
房能は、明応七年(一四九八)、越後の領主が保持していた郡司不入権を破棄した。郡司とは守護の郡単位の代官であり、郡内の検断、守護の命令の執行などの役割を担っていた。郡司不入権とは、守護が有する有する国単位の公的権力の介入を拒否することのできる権限であったが、房能はそれを否定したのである。
領主がもっていた不入権の否定は、守護の権限強化をもたらすものである。しかし、越後の上杉氏は、郡司不入権否定と同時に、郡司に大幅な権限を認めてしまった。(中略)群小の武士の権限は縮小されることになったものの、反対に、古志郡司長尾房景や蒲原郡司の代官山吉氏など巨大な領主は権限を拡大することになった。
郡司不入権がなぜ制定され、それがなぜ房能によって否定され、郡司の権限は拡大したのか。それぞれの利害がぶつかったためだが、背景の説明がないため、曖昧なうちに終はってしまった。
永正四年(一五〇七)八月、守護房能は守護代長尾為景と対立し敗死した。(中略)為景に擁立され、守護の地位についたのは上杉定実であった。
このあと定実と為景の対立からまた戦になり、
上田長尾氏らによって守護方の(中略)千余人が打ちとられている。五月二十六日には宇佐美房忠らが立て籠もる岩手城が落城し、(中略)宇佐美一族が殺された。
十四年後、長尾為景は幕府から守護と同格の格式を許された。しかしその二年後に
上条定憲は長尾為景に対し兵を起こした。
このときは失敗したが二年後に再び兵を挙げ
上田の長尾房長と阿賀北衆は上条方についた。(中略)長尾為景は隠居に追い込まれ、晴景に家督を譲らざるをえなくなる。
謙信の兄が家督を継いだ。

七月七日(木) 第四章「長尾景虎の登場」
晴景から謙信(景虎)への権力移譲は、武力衝突の恐れが最初はあったものの守護上杉定実の仲介があり天文十七(1548)年平穏に行はれた。その二年後に定実は亡くなったが
その年の十二月、上田長尾家の当主長尾政景が景虎と対抗し武力構想が始まった。翌年、この抗争は終結するものの、景虎に一族の上田長尾家をつぶすことのできる実力はなく、上田長尾家の勢力は無償のまま温存されることとなる。

矢田氏は続いて
弘治二年(一五五六)には、大熊朝秀が兵を起こしている。大熊朝秀は、享禄三年(一五三〇)に長尾為景と対立し兵を起こした公銭方大熊政秀の子である。

その前に
天文二十一年(一五五二)正月、北条氏康の上野進出により、関東管領上杉憲政が平井城から、景虎のもとに逃れてきた。

関東管領が来たのは、まだ国内がまとまってゐない時期だった。
浩治二年(一五五六)六月、宗心は隠居を決意するものの、八月、それを取り止めている。取り止めたことを契機に、名前を宗心から景虎に戻した。
宗心の隠居事件の最中に、大熊朝秀が宗心と対立し兵を起こした。(中略)大熊氏はその後、武田晴信に仕え(以下略)
その後
永禄二年(一五五九)、景虎は二度目の上洛を行なった。(中略)相伴衆に取り立てられ(以下略)
矢田氏は相伴衆になってから文書の署判者に柿崎景家、北条高広、斎藤朝信といった自らの城と城下を持つ戦国領主が加はったことから
相伴衆に就任し(中略)戦国領主を自らの政権下に取り込むことに成功した。
とする。

七月八日(金) 第五章「上杉輝虎への道」
第四回川中島合戦で、謙信が阿賀北の領主中条氏に宛てた感状が載ってゐる。
(前略)凶徒数千騎討ち捕らえ、大利を得候事、年来、本望に達し、また面々の名誉、この忠功、政虎一世中、忘失すべからず候、いよいよあい嗜み忠節抽かれ簡要に候、恐々謹言
同じ内容の文書は他の領主にも出してゐる。現代人は安土桃山時代から江戸時代のやり方が戦国時代にもあったと考へがちだ。戦で手柄を立てれば温床として領地を貰へる。しかし戦国時代は来月の我が身も判らない。そのような時代には感状こそ大切だったのかも知れない。その二年後の関東出兵で崎西城(埼玉県騎西町)、祇園城(栃木県小山市)を降伏させ、
輝虎はいったん越後に帰ったものの、信玄が倉賀野城(群馬県高崎市)を攻めると、閏十二月十九日、雪のなか峠を越え、厩橋(群馬県前橋市)に到着している。(中略)二月十七日、輝虎方が佐野城を攻め破ると(中略)輝虎は家臣の戦功を賞して多くの感状を発給している。越後阿賀北の色部氏に出した文書は、次のようなものである。
今度、佐野の地攻め破る刻、其方の手の者、討死両人・手負両人、此の如き動き神妙の至りに候、いよいよ向後あい嗜み、かせぎとして簡要候もの也、(以下年号署名宛名略)
このような感状が発給される前に、色部勝長は輝虎に自分の軍隊の戦死者・負傷者を提出している。色部氏はこのような感状をもらい、その後の所領給与の保証を得たのである。
その後、関東では謙信と信玄の攻防が続き、二年後の
永禄九年(一五六六)正月には、佐野に向けて兵を動かした。その後、かつて攻略に成功したものの奪回されていた小田城を再び攻めた。ここを二月十六日には開城させ(中略)三月二十三日には(中略)下総臼井城(千葉県佐倉市)を攻撃した。だが、北条軍から援軍が来ると、上杉軍は数千人の死傷者を出すという敗北を喫した。上杉勢は負けたのであるが、戦いに参加した領主たちは合戦参加の見返りを求めた。(以下略)
勝ち戦であろうが負け戦であろうが、合戦に参加した領主にとって、のちの所領獲得の保証になる感状を手に入れれば、それでよかったのである。
矢田氏の解説は正しいのだらう。しかし戦国時代は来月の命さへ判らない。徳川家康が幕府を開いたときも数代続くことしか期待しなかったし、主君が跡継ぎ無しに亡くなれば改易になり、家臣たちは路頭に迷った。だから私はあへて世襲の領主制はこのころは機能せず別の価値観があったのではないかと先ほど考へた。

七月九日(土) 第六章「越後の城と領主」
越後では十六世紀までに(中略)城も大きく変化してゐる。それまでの居館であった城が十六世紀前半には廃棄され、山上もしくはその山麓に居住郡を築き、領主はそこに移り住んでいる。飛騨国の江馬氏、越後国の中条氏・色部氏の居館の移動はその例である。
集落がどうだったかは
下地中分とは領家・地頭が下地を分割することで(中略)南北に伸びる町中道を東西に二分し、そしてそれをさらに南北に分割し、四等分してたすきがけの区域を領家・地頭で分割している。(中略)小泉荘加納地域の地頭は色部氏で(以下略)
とある。次に春日山城について
守護上杉家の拠点は府中であり、守護代長尾氏、そして後に上杉を名乗ることとなる上杉謙信、そしてその養子の景勝も、府中を春日山城の支配地域に組み込んだことはなかった。慶弔十三年に堀氏が福島城とその城下町を作り上げるまで、守護代家長尾氏の拠点の春日と守護上杉氏の拠点の府中は統一されることはなかった。
尤も章の後方には、春日と府中と、信州から移住させた善光寺門前の三か所を謙信が支配したとある。この本の特長は古文書をもとに展開し、著者の見解は統一されないところにある。これは良いことだ。(完)


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