八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その三)柴辻俊六氏「信玄と謙信」

平成二十八年丙申
六月二十六日(日) 「はじめに」と第一章「家系とおいたち」
次は柴辻俊六氏「信玄と謙信」を読んだ。「はじめに」によると謙信と信玄に関係する本は多数あるが
質的に新鮮なものは少なく、研究史に残るような仕事は限られている。
そのようななかで井上鋭夫氏の「謙信と信玄」は
当時のこの分野における研究成果を十二分に反映させた専門書として高い評価を得ている。
しかし四十年余を経過した現在、この分野での研究状況は一変しており、新史料の発見や、諸資料の発掘が進んでおり、すでに書き直す時期が来ているのではないかと思われる。
井上氏は当時、新潟大学に在職してゐたため、謙信を先に記述したが、柴辻氏は
九歳年長の信玄を先に記述し、同じ項目について謙信の場合を述べていくのが順当かと思い(以下略)
と書いてゐる。柴辻氏は山梨県の出身だから信玄を先にしたといふ理由もあるのだらう。その点で云へば、井上氏は石川県出身で新潟大学助教授、教授、金沢大学教授を歴任。謙信の加賀攻略に大きくページを割いてゐるし、最後の四ページの謙信批判はその影響であらう。

第一章では謙信について
本姓が長尾氏であり、相模国鎌倉郡の長尾荘(横浜市長尾台町)が本貫地である。
とある。横浜市栄区長尾台町で、Wikipediaによると長尾台町は
長尾氏が長尾庄字台に居住したことから長尾臺の名が付けられた。長尾台町地内にある御霊神社(横浜市栄区)は長尾為景が長尾氏の祖先を祀る鎌倉郡村岡郷宮前村(現:藤沢市)の御霊神社(藤沢市宮前)の分霊し創設したものである
とある。関東に進出するのは謙信の代になってからと思ってゐたが父親の代に神社を創設してゐた。

謙信の出家問題であるが、天文二十二年秋に上洛した際、臨済宗大徳寺の徹岫宗九から、宗心の法号と五戒を受けており、それ以後、花押も変えて「長尾入道宗心」と署名しているから(引用元略)、一時的には出家したのであろう。
入道とは在家のまま仏道に入ることだ。五戒とは信者の戒だ。つまり出家したのではなく在家のまま仏弟子になったのだらう。
しかも二十七歳となった、弘治二年(一五五六)六月末に、先師であった天室光育に宛てた長文書状に(中略)現職を引退して隠棲する心情を縷々のべている。


六月二十六日(日)その二 第二章「川中島の戦いと甲越対戦」
川中島の合戦が五回あったといふ説に対し
永禄四年(一五六一)の一回に限定したほうが分かりやすいとの考えである。(中略)また五回目とされる、永禄七年の対決は、(中略)北関東・飛騨・越中での対決も含めて、甲越対戦史の一環としてみるべき性格のものである。ちなみに江戸時代においてさえ、一般的に川中島合戦といえば、永禄四年九月のもののみを指している場合が多い。
とする。永禄四年の結果がどうだったかについて、この地域に残る感状の
大部分が後世に作られた偽物であるといった点も特異である。とくに武田側の感状にその傾向が強く、実像としては、信玄にとってはこの戦争が敗戦との認識であった点は、真性の感状が皆無であることからもわかる。
とする。一方の謙信側は
これらには「凶徒数千騎討ち捕らえ、大利を得、年来の本望を達し」とあり、筆跡も同筆であり、(中略)これらによって、謙信が勝利したとの認識であったことと、それが後世においても、特別なことだとは思われていなかったことがわかる。
とする。

六月二十六日(日)その三 第六章「西上作戦の挫折」
信長が長篠の戦ひに勝利の後に、謙信と信長の関係は悪化する。
両者の同盟は、それまで対武田といった共通認識で維持されていたが、ここに至って情勢が一変し、加えてこの時期になって、京を追われていた足利義昭が、幕府再興の呼びかけを始めてきたのである。(中略)義昭は毛利輝元や本願寺にも働きかけて、(中略)四月に本願寺が信長に対して挙兵したことによって、謙信は本願寺を支援することに決し、五月中旬には、永年にわたる本願寺との対立抗争から、講和への成立へと外交転換をしている。これによって越中での門徒衆との対立状況も沈静化し、加賀の一向一揆を支援して、信長と直接対決していくことになる。
謙信は越中を平定し七尾城の攻略のときに
信長は先陣の柴田勝家らに加えて、羽柴秀吉らの加勢を送って救援を命じたが、加賀の一向一揆の抵抗が激しく、間に合わなかった。
七尾城は落城し、末森城を攻略し
手取川の手前で織田勢と遭遇した。この手取川の合戦で、織田方の千余人を討ち取って大勝し(中略)謙信は領国となった能登の仕置きをし、(中略)十二月初旬には春日山に帰陣している。
翌年正月、下総からの出陣要請があり、月末に陣触れを出し、一か月後に脳卒中で倒れ五日後に亡くなった。

六月二十六日(日)その四 第七章「両雄の人物像」
武田信玄の戦略家としての資質について
孫子の兵法を実践して、戦わずにして勝つことであるという。確かに(中略)外交による敵方への調略が先行しており、開戦と同時に決着のついている場合が多い。

しかしそれは相手が弱小の大名・領主の場合だといふ。謙信に対しても北条高広、大熊朝秀、本庄繁長への調略が年を隔てて行はれ
一旦は成功しているが、いずれも最終的には謙信によって制圧されている。
次に外交について
早くから多方面にわたる外交交渉を展開させ、(中略)和戦両様の構えで内部情報を的確に把握した上で、その切り崩しを計っている。(以下略)
遠交策も目立っており(中略)折衝が早くから計られており、(中略)北条氏との対戦となった状況での、常陸佐竹氏や房総の里見氏らとの同盟成立がそのよい例であり、謙信に対する会津葦名氏や、本願寺・越中国衆との提携も、こうした結果によるものである。

とある。

謙信の場合は
信玄のように、事前の外交交渉や内応工作を進めてからの出陣といった事例は少なく、必要な状況に応じて即出陣していたとの印象が強い。これは(中略)同盟や協調していた側からの要請による救援出陣の場合が多かったからである。

退陣後の統治の仕方にも現れ
謙信への反復を繰り返した大名・国衆に対しても、その制圧後に徹底した排除策はとらず、旧領を安堵して引き上げている。

とある。
しかし信玄死後の元亀四年以降になると、謙信のこうした方針には変化が見られるようになる。具体的には、越中・能登の領国化であり、関東への積極的な出陣である。(中略)謙信に上洛志向の意識が高まってきたことによる変化とも思われる。

信長によって追放された将軍が各大名・本願寺に上洛を促したためだらう。


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