八百十 茶話会が有益だつた説法(増上寺大殿説教、佐伯教道師)

平成二十八年丙申
二月二十九日(月) 茶話会
二十一日の大殿説教は北海道の佐伯教道師だつた。説教はエピソードを入れられたが、何の欠点もなく普通の説教であつた。
部屋を移して茶話会のとき、私が「北海道のお寺は明治維新後に創られたと思ひますが、戦前はお寺を新設できなかつたから、廃寺になつた寺号を移転、或いは教会ですか」と質問して、そのあと有益な話をたくさん伺ふことができた。次のようなお話があつた。

函館や松前藩にはお寺があつた。有珠の善光寺は三官寺の一つ。江戸幕府が住職を指名したが増上寺が僧を推薦した。アイヌ語訳の一枚起請文がある。
明治維新後に本土からの移住者とともに教会や布教所ができたが、一つの宗派が一村一ヶ寺だつた。
アイヌをだます和人。さういふことを許し同化した。
差別戒名は無かつた。真宗はよくある。
アイヌは動物、植物を無駄にしない。旭川のアイヌはX宗が多い。
旭川は熊と共生。札幌では熊が出たと騒ぎになる。
エゾシカは不味い。野生の動物は不味い。美味しければ食べてしまつた。家畜は品種改良された。
知床では漁師と熊が仲良く暮らしてゐる。
以上の北海道に関する貴重なお話があつた。

三月一日(火) 布教師
北海道に関係して、北海道の誰々さんのお子さんが今、布教師研修に来てゐますねといふ話が信徒から出て、昔は何年か経つと布教師をやれと云はれたが今は厳しくなつたと返答された。試験や研修を厳しくすれば、粒は揃ふが特徴を持つた人がゐなくなる。
粒が揃ふとは、落第線より下の人がゐないことだが、浄土宗の布教師全体が落第線すれすれの印象を受ける。これは決してこの日の佐伯教道師のことではない。教道師の大殿での説教は遥かに上だつた。数ヶ月間の説教全体の傾向として、阿弥陀仏の救ひといふ一言に集約される。浄土宗だから教義の上ではそれでよいのだが、釈尊に始まつて法然上人に至るまでの浄土教の歴史と発展、浄土三経と他の経典の関係、比叡山でなぜ法然上人だけが浄土教になびいたのか、親鸞系が後に大きく教義が異なつた理由、なぜ親鸞だけが結婚したのかなど、取り上げる内容は無限にある。

私が、増上寺の布教師と宗門の布教師の関係について質問し、教道師から、僧侶は本当は全員が浄土宗の布教師だが布教師会に入りたくないといふ人もゐる、増上寺や知恩院や鎌倉の布教師は任意で布教師になるとこれを授与されると首の周りのものを提示された。

三月五日(土) 保護司
聴く側で参加された僧侶は保護司をされてゐるので、佐伯教道師の保護司としての活動について静かに質疑が続いた。その後、或る参加者から、被害者より加害者が優遇されてゐるといふ話があり、ここで会場はまた熱が入つた。教道師は保護司の立場があるからそれほどは発言されないが、参加者からはかなり批判があり、日本では正しいことが云へない、きれいごとしか云へないといふ意見があり、私も同感だつた。
或る参加者から日本は昔、仇討ちがあつたからその影響が今でも抜けないのではといふ意見があつた。その意見自体は被害者より加害者が優遇されてゐるといふ文脈で為されたから、何の間違ひもなく、仇討ちがあつたから刑罰が不十分になつたといふような内容だと記憶してゐるが、ここで私は、仇討ちは子が親の、弟が兄の仇討ちはできるが、逆はできないから、これは恨みの心を社会から和らげるものだつたと意見を述べた。
ここ二十年ほど日本は西洋猿真似が過剰になり、各宗派とも僧侶の説法で、西洋のものがよくて日本のものが悪いといふ話が入ることがある。そこまで行かなくても、アメリカの小学校はかうだとか、アメリカの福祉施設はかうだとかいふ話が混じることがある。我々は、日本のものが良くて、外国のものは悪いなどとは云ふべきではないが、だからと云つて西洋のものがよくて日本のものが悪いと云ふべきではない。それでは過去と不連続になり、社会が不安定になる。

三月五日(土)その二 大殿での説教
茶話会の前の大殿での説教で何が話されたかともし質問されたら、不謹慎な話だが、私はエピソードを除いて覚へてゐない。決して内容に不満がある訳ではない。現に終つたあと良い法話だつたと感じたくらいだつた。エピソードが二つあり、どちらも短時間だから問題はない。香山リカの話のように長々とエピソードを話されると聞く側に不満がでるが、短時間なのでそのようなことはなかつた。
エピソードは本題を印象付けるためにあるが、聴く側はエピソードしか頭に残らない。ここに主人公と脇役の逆転現象が起きる。或る経済誌に講演にはエピソードを入れたほうが単調ではなくてよいといふ意見すらあつた。エピソードを入れるときは主題の補足として話してゐることを聴者に強調することが、まづ必要になる。
次に話す主題は多めに用意し、エピソードで時間を稼がない工夫が必要になる。今回の説教は何の問題もないのだが、日本における仏教の再生のため、つひこのようなことを考へてしまつた。(完)


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