七百八十 大袋訪問記(昭和五十年代の埼玉県に遭遇)

平成二十七乙未
十二月十一日(金) 浅草駅
大袋に安価な不動産があるので見に行つた。八日は待乳山聖天の年に一回の御開帳なので休暇を取つて参拝し、その足で浅草から大袋に向つた。浅草駅から乗降したことは一回もなく、しかし正面側の改札まで外から行つたことはある。特急の発車時刻が表示され、賑はつてゐた。しかし今回、裏側の改札から入つて驚いた。平日の昼間とはいへ寂れて、しかも電車の先頭二両はホームに掛からない。
考へてみるとこれはよいことだ。観光の街、庶民の街だから高層ビルがない。高層ビルが出来た途端に、近くの駅は通勤時に混雑する。地下鉄の中野坂上駅が典型だ。もともとは乗降客の少ない駅だつたのに高層ビルが出来て混雑するようになつた。朝の通勤時に都心と逆方向なのに新宿から中野坂上まで混雑する。
新宿止まりを中野坂上かその先に延長すればよいのに東京メトロはやらない。昨年辺りにになつて方南町駅のホームを延長することになつた。方南町支線は終点のホームに六両編成が入れない。だから一つ手前までしか直通電車が来ない。それを延長して新宿止まりを減らさうといふ構想だ。これなんか、浅草駅みたいにホームからはみ出して停車させれば、分岐器の位置を移動させるだけで出来る。だから浅草駅のホームをはみ出す電車は東武鉄道の努力として、高く評価すべきだ。

十二月十四日(月) 駅前道路から昭和五十年代の浦和を連想
大袋駅の駅前広場から新しい道路が延びる。しかしすぐ工事中区間に入る。ここから先は建設中だ。古い道路は駅の南側からやや斜めに走る。古い道路に代はる駅前道路が間もなく完成する。昭和四十年辺りの駅前からポツンと舗装道路だけが作られた光景を思ひ出す。しかし大袋では道路の両側に住宅が並ぶ。この光景は昭和五十年代を思ひ出す。

十二月十六日(水) 消臭装置から昭和五十年代の浦和を連想
大袋で目に付いたのは、汲み取り式の排気管だ。昭和五十年辺りまでは風力による排気管が一般的だつた。風が吹くと先頭の風車が回り排気する。その後、小型電動機による排気が普通になつた。その前あたりから家庭用浄化槽も普及した。大袋では浄化槽ではなく汲み取り式が多いことが判る。道路の下水工事の終了した現在でも、排気管があちこちの家にある。

十二月十七日(木) 木造の一軒家と木造アパートから昭和五十年代の浦和を連想
一軒家で外側にトタンを巻いた家が、昭和五十年代はよくあつた。今はほとんど建て替へられた。この辺りはさういふ家が点在する。アパートでもかう云ふ造りのものを目当ての物件の近くで見た。
昭和三十年代か四十年代前半の建物が今でも残るためだ。空き家も点在する。大袋駅の乗降客数を調べると、ここ数年は横ばいか微減してゐる。急行が止まらないことが原因とみた。
伊勢崎線について調べると、かつては通勤者の少ない路線だつた。日比谷線に直通するようになり人口が激増した。北千住駅で乗り換へる人が多く危険なため、北千住乗り換への定期券で浅草経由を認める処置を取つたさうだ。その後、半蔵門線が直通するようになつた。なるほど、なぜ二つの地下鉄が乗り入れるのか判つた。

十二月十九日(土) 昭和四十九(1974)年と六十(1985)年
昭和四十九年辺りから日本の経常黒字が問題になり始めた。そして昭和六十年のプラザ合意で決定的に悪くなつた。大袋に昭和五十年代の街並みを発見し懐かしく思つたのは、日本が元気だつた最後の時代だからだ。(完)


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