七百五十六 夜の神楽坂散策記

平成二十七乙未
十月十日(土) 勤務先の懇親会
勤務先の下期のキックオフミーティングが飯田橋の健保本部であつた。昔は健保のスポーツプラザのあつた場所である。貸会議室は地下一階でかつてはプールがあつた。改築のときに作つた天井が、窓に隣接する部分だけ高さが異なる。あと入り口扉の上にある内倒し窓の跡、更衣室から降りる階段跡で廊下の壁が曲線。この三つがかつてプールだつた名残りである。
飯田橋はかつて警察病院があつた。移転したあと、上期のキックオフのときは工事中だつた。今回は高層ビルができた。私は懇親会の準備の担当なので会合が終る前に会場を退出し、高層ビルの横を通り飯田橋駅を超えて、懇親会の会場に向かつた。
会場では場内案内係で、乾杯が終つた後に遅れて来る人が多かつた。カウンターの近くで案内したため、手軽にビール2杯、黒ビール1杯、ハイボール1杯、白ワインと赤ワインを0.1合くらいづつ飲んだ。あと喫煙室は開口部が大きく向かひの部屋に煙が来さうだが来ない。奥の丸テーブルが四つ空いてゐる。誘導しようかと思つたがここで食べてゐるうちに埋まつてきた。といふことで六時半に満腹になつた。
このまま退出すればよいのだが、懇親会の荷物の紙袋は私が持って来たから帰りも持つて帰らなくてはいけないかもしれない。といふことで時間が余つたので、外を散策することにした。
周囲は緩やかな上り坂だつた。神楽坂と知つたのは散策を始めた後である。

十月十三日(火) 一回目
一回目は坂を上がると、左の路地に明るい照明が見える。その店の前まで行つて戻るときは見番横丁を通つた。更に坂を上ると天善國寺といふお寺があり、まだ門は開いてゐた。更に坂を上がり大久保通りで折り返して懇親会場に戻つた。大久保通りはかつて都電13番が走つてゐた。そのことを知るからここで折り返したが、知らなければそのまま先へ進むくらい小さな道路である。といふか昭和四十年代はこれが普通の幹線道路だつた。
都電13番は4000型といふ車両が最後まで走つてゐた。廃止直前に乗りに行つたが4000型が何だい待つても来ない。やむを得ず違ふ型に乗つた。4000型に乗り損ねたのは今でも痛恨の極みである。尤も車両は6000型と変はらない。台車や機器が新造か古い車両の改造かの相違である。

十月十三日(火)その二 二回目
二回目の外出は坂の右側の石畳の路地を歩いた。このとき天善國寺の門は既に閉まつた。十年くらい前だらうか。神楽坂の石畳は歩いたことがある。しかし昼間だから何の特徴もない路地だつた。夜に歩くと雰囲気がまつたく異なる。多くの飲食客と明るい店内。ほのぼのと明るい路地。京都の景観保護地域みたいである。よい気分で石畳の路地はすべて歩いた。

十月十三日(火)その三 三回目
三回目は大久保通りを超えて散策した。道路は明るいが店は少なくなる。神楽坂駅の先の道路の暗くなるところで折り返した。翌日地図を調べると、大久保通りまでが神楽坂だ。その先は便乗しただけだがそもそも神楽坂といふ駅名が不適切である。尤も神楽坂商店街にとつても宣伝になるから駅が神楽坂を名乗るのは問題ないみたいだ。
会場でもつと飲食してゐればよいではないかと云はれさうである。飲むのはもつと飲めるが満腹になつた。腹八分目が大切である。正社員としてキックオフに参加するのは今回が最後である。あと四ヶ月で定年になる。次回参加するときは嘱託である。(完)


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