七百十四、1.神泉駅周辺、2.雅叙園百段階段、3.東急バス1日乗車券、4.陸軍登戸研究所跡

平成二十七乙未
六月十五日(月) 鍋島松涛公園
土曜は、道玄坂に午前と午後用事があり、昼は弁当を家から持参した。予め街路図で児童遊園を見つけてあつたが道に迷つた。そのまま歩くうち神泉駅の前に出た。ここの街路図は変である。神泉駅と書いてあるのに道路に短い線が二本引いてある。踏み切りを渉ると右側は隋道、左側は地下駅である。鍋島松涛公園に向かひ途中で向ふから来た若い男女に道を訊くと、日本語に多少苦労しながら一所懸命に説明してくれた。外国人が日本に住むことは歓迎である。昔から今までこの考へに変はりはないが、社会破壊拝米新自由主義反日(自称朝日)新聞の元主筆船橋洋一の、外国人が多く住むようになるから英語を話せるようにしろといふ暴論には絶対に反対である。日本語が不自由な人には周りが親切にすべきだ。しかし日本に住む以上、日本語を学習すべきだ。その点、アジア系の人はきちんと日本語を勉強する。欧米人は横着に英語で済まさうとする。それなのに欧米人には追従笑ひを繰り返し、アジア人には高圧的になる。国売り(自称読売)新聞、白人国崇拝KKK(自称サンケー)新聞の悪影響と、反日(自称朝日)新聞の従軍慰安婦捏造記事などへの反発から半ジアになる人の多いことは困つたことである。そんなことを考へるうちに公園に着き昼食を食べた。
このときは時間が無いのでそのままひき返した。午後の用事が終了の後に再度公園に来た。池の周囲を廻つたのち帰つた。

六月十六日(火) 神泉駅
神泉駅の周囲は庶民的な店が並び、よい雰囲気である。最近できたビルは変に高級風な店ばかりだが、あの雰囲気は嫌ひである。それに対しここは実によい雰囲気である。松涛公園に向かひ二車線の道路を渡ると雰囲気は一変して高級マンションの街になる。松涛公園の前の消防署の建物に見覚へがある。十年ほど前に一回だけ来たことがある。松涛公園に入らないはずはないのだが思ひ出せなかつた。池があり水車もある。説明板を読むと、明治維新後に鍋島家がこの辺りを購入したとある。都内でも湧き水のある池は珍しいさうだ。

六月二十三日(火) 百段階段
新聞配達店から「神の手・ニッポン展〜神の手を持つ日本人作家 6人の合同展〜」の招待券を二枚もらつた。場所は目黒雅叙園の百段階段である。妻は忙しく行けないので一人で行つた。なるほど木造の建物はよいものである。天井と欄間の絵が美しい。六人の展示も昭和四〇年代にはよく見られた家屋や商店が多くなつかしかつた。私は小学校一年のときに雅叙園で昼食を食べたことがある。今でも微かに記憶がある。廊下が幅2mくらいだつた。当時の記憶と同じなので余計懐かしかつた。

六月二十五日(木) 路線図とはうらはらに向ヶ丘遊園駅まで行けない
目黒まで東急バス一日乗車券で行つた。目黒に行つたついでにあちこち回らうといふ次第である。川崎から五反田までの路線は本門寺裏で二百五十円になる。今から三十年くらい前だらうか、そのとき乗つた記憶では二区間(今は都内が川崎より十円高いので三区間)だつたことを完全に忘れてゐた。あと半月ほど前に池上本門寺の裏を西馬込駅と西馬込工場跡地(現、立正学園中学高校)まで歩いたことを重ひ出した。
東京駅までも乗つた。かつては都バスとの共通路線だつた。一昨年三月末に東急バス単独になつた。これはよいことである。都バス一日乗車券でこの路線の乗らうとして次が東急だつたため、一台待たされたことがある。都バスか東急バスの一日乗車券を利用する人には朗報である。東京駅に着いて驚いた。東京中央郵便局前のバス発着場がなくなり普通の道路になつてしまつた。かつては並列に三つのプラットホームがあつた。今は歩道沿いに三か所分散させた。跡地の道路は結構車が通るのだから驚きである。シロアリ民主党と同じですぐたかる。
このあと向ヶ丘遊園まで行くことにした。東急バスの路線図で川崎から向ヶ丘遊園まで若干の乗り継ぎで行けることは確認してある。ところが溝の口から先がない。川崎市営バスはあるが東急バス一日乗車券は使へないから勿論乗らない。高津まで戻つて駅の係員が路線図とにらめつこしながら二停留所まで歩いて梅林から行けることを見つけてくれた。といふことで路線図では連続のはずなのに二停留所歩いた。梅林の時刻表を見て驚いた。一時間に一本しかない。しかも十分前に出たばかりだ。といふことでこの日は高津まで歩きあとはバスで川崎に戻つた。

七月一日(水) 二度目の訪問
招待券がもう一枚あるので、再度訪問した。二回観ると一回目とは違ふ発見がある。本当はどんな観光地も二回観るとよいのだが、時間と入場料が余分に掛かるので行けないといふのが実情である。二回目は収穫が多かつた。下から二つ目の漁樵の間は一回目は気付かなかつたが、立体ですごく派手である。しかし中国の漁樵問答の一場面といふことで、なるほど故事に因んだ場面なのか、それなら派手さも落ち着いて見えるから不思議である。
頂上の間からは一つ上の建物がよく見える。外から見ると下町でよく見られた木造のごく普通の建物である。内部は豪華でも外観は質素、これが望ましい。この建物の二階は百段階段を上がると行けるが一階はどうなつてゐるのだらうか。雅叙園の案内係の人に尋ねると二階建てが三棟、平屋一棟に七つの間が収まるさうだ。

七月二日(木) かすかな記憶
百段階段を検索すると、雅叙園を全面建て替へのときに工事作業員の宿舎(当時は飯場)として使はれた。当時はそれほど価値のある建物ではなかつた。木造の家屋は至るところにあつたのだから。プラザ合意の以降、人件費の相対が高くなつた上にプレハブ工法の導入で日本の家屋は外観が珍奇なものが増えた。街並みの調和を考へない新自由主義の横行と云へる。そして百段階段は価値あるむものとなり、平成二十一年に都の有形文化財に指定された。 私は小学校一年か二年のときに雅叙園で昼食を食べた。廊下から和室に入り、7mくらいの長い座テ−ブルに対面に親戚一同が座つた。私は廊下側で廊下は百段階段と同じくらいの幅だつた。かすかに覚えてゐることを係員に云ふとうらやましい、廊下には絵が飾られてゐたといふが、廊下に絵があつた記憶はない。ここで筆を止める筈だつた。しかし廊下に絵があつたと母が当時云つたことを今、思ひ出した。

七月五日(木) 再度の向ヶ丘遊園行き
高津経由は本数が少ないので、上野川、梶ヶ谷とバスを乗り継いで向ヶ丘遊園駅に至つた。歩いて生田緑地に寄つた。ここは十年近く前に自転車で来たことがある。民家園に入り、旧国鉄の客車も見た。今回は旧国鉄の客車だけを見た。座席下に何かのバルブがあつたが、今回車輌の中央付近の左右の座席下に暖房用蒸気のバルブ(全と半の二段階)があるのを見た。室温に応じて蒸気量を全全、半全、半半と三段階に調整できる。それとは別に電気機関車から直流1500vの電気暖房のジャンバー栓とデッキのスヰッチも確かNo1からNo4まであつた。

七月五日(木)その二 陸軍登戸研究所跡
生田緑地の裏側から外に出て、明治大学に寄つた。陸軍登戸研究所の建物を当時のまま一棟保存し、展示館として公開してゐる。明治大学の努力は多とするも目的が間違つてゐる。この展示だと日本が悪いといふ村山富市や朝日新聞ばりの主張になつてしまふ。悪いのは戦争そのもので日本ではない。植民地争奪戦争になつたのは西洋文明の責任であり、その意味で猿真似した日本も非難されるべきだ。ところが村山富市や朝日新聞は米英仏は正しくて日本は間違つてゐるといふ。アメリカは原爆といふ人類史上最悪の兵器を開発した。登戸研究所の風船爆弾や細菌戦やニセ札は原爆に比べれば罪は軽い。細菌戦は三つの中では重い。それより責められるべきは、国民の税金でたくさんの研究をしながら戦争を逆転できなかつたことだ。そんなことを云ふのは軍国主義だと批判する人がゐさうだが、そのようなことをいふとすれば米英仏が正しいと洗脳された証拠である。国民の税金を使つて研究をしながら逆転できなかつたのだから、責めるとすればその点である。

七月五日(木)その三 帰路
登戸研究所を出て、当時からある神社に参拝して、横の狭い坂を降りると明治大学の裏門に出た。その手前に白く大きいビニール袋が積んであるので、化学廃棄物かと覗くと古い馬草だつた。なるほど後ろの二階建ては馬術部の部室だつた。裏門の外から馬場を眺めると馬も部員もゐなかつた。馬の運搬車が駐車してあつた。
帰りは高津経由の予定だつた。しかしバスが発車したばかりなので、往路と同じ経路で帰つた。高津経由が少ないのは玉川電車の代替バス路線だつたといふ事情があるようだ。今から十五年くらい前に、やはり東急バス一日乗車券であちこち乗つたことを思ひ出した。そのとき東京側から終点の高津営業所まで乗り、そこから先の路線は本数が少ないので高津まで歩いたことを思ひだした。今回と同じ路線の話である。あと、横浜側から東京側に乗り継ぐのに蟹ケ谷、子母口経由で千年で乗り換へるか高津営業所まで歩くかだつたことも思ひ出した。(完)


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