六百八十九、全面賛成ではないが讀んだ本の紹介(1.「日本史の思想」、2.「なぜ外務省は駄目になつたか」)

平成二十七乙未
四月十二日(日) 日本史の思想 アジア主義と日本主義の相克
著者は小路田泰直氏で昭和二十九年生まれ、出版は十八年前。なぜ年齢と出版年を気にするかと云へば、日本の出版物で政治、文化、国際問題を扱つたものは年が後になるほど悪くなる。右肩下がりである。年齢は終戦前十年間と終戦後五年間だけ下に大きく下がる。こんな図式である。ただしこれは平均値である。どの年代にも良い人と悪い人がゐる。
この書籍を読んだ理由は、副題の「アジア主義と日本主義の相克」の部分である。読んだ感想は何か本質を掴まない論評ばかりである。よい云ひ方をすれば観点が異なるといふことになる。それではまづプロローグを読んでみよう。
大阪府泉南郡熊取町に一基の原子炉がある。京都大学研究用原子炉だ。(中略)激しい反対運動にあい、流れ流れてこの地にやってきた。

で始まる文章は日本社会党などが最後は賛成派に回つたことを述べた後で
いやなことは「辺境」に押し付けて、保守と革新の妥協を図る、戦後日本特有の政治力学が働いたからであった。/戦後民主主義は、保守と革新が主体的に妥協点を探ろうとしない、ある意味で無責任な、パフォーマンス過剰の民主主義であった。

保守と革新が主体的に妥協点を探ろうとしないのは日本の政治が米ソの冷戦に巻き込まれたためだ。そこを云はないから本質を掴まない論評になつてしまふ。それではプロローグに続く序章を見よう。
「戦後の民主主義は占領によって移植されたものだ、と一般にいわれている。しかし日本には、戦前あるていどにせよ民主主義の発展があり、それが現在の民主主義の基礎になっていると思う・・・」。(中略)こうした問題意識を持ってしまったために、戦後歴史学には、一つの黙契ができあがってしまった。それは、一九二〇年代のデモクラシーと一九三〇年代のファシズムとの間には超えがたい断絶があり、三〇年代のファシズムは二〇年代のデモクラシーの必ずしも必然的な結果ではなかったと考える黙契であった。

ここまで同感だが、私が同感なのはここまでである。ここから先は私と小路田氏は共通の観点のないまま、私の側から言へば小路田氏は本質を掴むことのないまま頁は次々と進む。最後まで読んで印象に残つたのは次の話だけだつた。
日露戦争は一方で、次の岡倉天心の言説の微妙な変化に見られるように、アジア主義の、日本をアジアの盟主として位置づける、膨張主義的な代ジア主義への転換をもたらした。/日露戦争前には「もし、アジアが一つであるならば、アジア諸民族が単一の協力な網の目をなしていることもまた事実である。(以下略)」と日本も含めたアジアの同質性をもっぱらうたいあげていた天心が、日露戦争中になると「歴史のもっとも早い曙から、我々の民族が古代中国、インドの芸術と習慣を、その発生した場所では失われてしまった後にもながく保留してきた事実は(以下略)」と、むしろ日本と他のアジア諸国との相違を、ことさら強調するようになっていた。

四月十四日(火) なぜ外務省は駄目になったか(その一)
この本の著書は村田良平氏で昭和四年生まれ。出版は十三年前。村田氏の著書にアメリカが占領時に日本無力化を図つたことが書いてあるといふので同氏の著書を四冊借りた。この本を少し読み借りたことは失敗ではと気付いたが、有益な部分はある。日本が異常な国になつた原因五つのうち一番目は完全な自身喪失で米軍と無関係だから除外し
第二は六年八ヵ月にわたる連合軍、とくに米軍による占領である。人種的基盤も文明も異なる異民族による支配、とくに圧倒的な物質的豊かさを備えている米軍の存在自体が、民族としての痛切な劣等感をもたらした。
第三は戦力不保持条項を含む憲法の押しつけである。一九一〇年に発効した「陸戦の法規慣例に関する条約」に従えば、占領者は占領地の法律を尊重する義務を負う(中略)当時十七歳であった私は、この法律の前文が虚偽に満ちていることを一読して以来、この憲法にいささかの敬意も払ったことはない。


村田氏は後に外交官になり駐米大使も勤めた。憲法には従わなくてはいけない。しかし憲法に敬意を払ふか改憲を主張するかは個人の自由である。敬意を払はないのは実によいことである。
第四は東京裁判である。手続きも内容も裁判という名に値せず、勝者による偽善的な政治ショー異常のものではなかった。(以下略)
第五にあげるべきは、六年八ヵ月中に実施された(中略)マインドコントロールである。民主主義の原点の一つは言論の自由であるが、占領期間中、占領軍の方針に反する一切の発言(とくに占領政策の批判と東京裁判の批判)は封じられ(以下略)


ここまで同感である。

四月十五日(水) なぜ外務省は駄目になったか(その二)
占領期間中に、日本人は連合軍の選択する情報にしか接しえず、大規模な洗脳が行なわれたのである。/日本の過去がことごとく断罪されたことにより、日本人は今後とも日本という国民国家の成員として生きていくほかないにもかかわらず、日本人であることに後めたい感情を抱く人々すら出た。

ここも同感である。次にソ連ないしコミンテルンの指示によって動いた者は戦前からの主張だから了としうるとした上で
情けなかったのは、戦争中、戦意を鼓舞したものすら含む知識人や言論人のなかから、いわゆる”戦後民主主義者”なるものが学界でも報道界でも雨後(うご)の筍(たけのこ)のごとく出現して、一様に過去の日本をほぼ全面的に否定し、占領軍の導入した政策(もちろんその中には正しいものも決して少なくはなかったが)を手ばなしで礼賛(らいさん)したことである。

ここも同感である。更に云へばこの流れは米ソ冷戦が終結した昭和六十年代から平成二十年辺りまで更に強くなつた。かつての左翼が左翼崩れになり反米勢力がなくなつてしまつたからである。或いは中国の文化大革命とカンボジアのポルポトの失敗により西洋志向になつたためであつた。
私は、昭和二十七年四月二十八日に平和条約が発効し、日本が形式上主権を回復した日は何の感激も覚えず、むしろ失望の念をもってこの日を迎えたことを記憶している。なぜなら第一次日米安保条約の締結により(中略)実質的には占領の継続的色彩を残したままの主権回復であったからである。/ポツダム宣言第一二項には、所期の占領目的を達成した後は占領軍は撤兵することが規定されている。(中略)この時点で米軍が一時的にもせよ大幅に撤兵し、形式上にせよ基地供与について個別交渉の形をとっていれば、そのうち、憲法を改正しようという動きが始まったであろうし、占領中のマインド・コントロールから離脱しようとの動きも、もっと早く日本国民の中から生まれでていたであろう。

ここまで「一時的にもせよ」「形式上にせよ」といふ曖昧な表現を除いて賛成である。なぜかう云ふ曖昧な言葉がついたかはこの本が平成十四年といふイラク戦争でアメリカ一国主義が一時日本国内に広まつたことの影響であらう。だからこの本は先頭に「元駐タイ大使 岡崎久彦」と名乗る男の「推薦文」なるものを付けた。この男は元駐タイ大使を名乗るが日本とタイ国の交流に何か役立つたのか。この男のしたことと云へば退職後に中国の悪口とアメリカ追従の言論を元駐タイ大使の肩書きで繰り返しただけだ。それは元駐中国大使と元駐米大使の役割りだ。
第二章以降は外務省の内輪の話なので少し読んだが興味がなく省略した。


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