六百七十、1.世田谷郷土資料館、豪徳寺訪問記、2.バス一日乗車券で再度訪問(平日最後の組合事務所訪問)

平成二十七乙未
二月二十日(金) 世田谷線
先日世田谷線に乗つて下高井戸と三軒茶屋を往復した。天気予報では午前中が雨で午後は曇りだつた。だから午後半休で始めたのに結局は一日中雨だつた。しかし世田谷郷土資料館と豪徳寺といふ優良な観光地を発見することができた。

二月二十二日(日) 羽根木公園
まづ山下で降りて羽根木公園まで雨の中を歩いた。山下はかつて玉電山下といふ停留所だつたが昭和四十四年に玉川電車が廃止されたときに山下と改称された。すぐ横に豪徳寺といふ小田急の駅がある。同じ場所で駅名が別なのは小田急が悪い。豪徳寺に一番近いのは世田谷線の宮の坂である。だから世田谷線が山下を豪徳寺と改称することは絶対にない。それなのに小田急が後から開通しておきながら豪徳寺と名乗つた。
羽根木公園の梅は二分咲きといつたところだらう。梅祭りが二月一日から三月一日までなのに今年はずいぶん遅れた。羽根木公園は前に一回来たことがある。当時は駒沢陸橋から出ていた都バスで新代田で降りた。近くに羽根木公園といふ大きな公園があるので立ち寄つたことがある。

二月二十三日(月) 豪徳寺
一日乗車券を買つたので山下から一停留所だけ乗り豪徳寺に向かつた。井伊家歴代の墓は見事である。しかし後日気付いたが招猫殿と、三重の塔の猫の像を見逃した。雨だと急ぐから見逃しが出る。ここには玉電時代の車両で後に江ノ島電鉄に移籍した車両が展示されてゐる。
反対側のホームなので踏切がなることを心配しながら急いで見た。そしてこちら側のホームに戻つた。

二月二十四日(火) 代官屋敷と世田谷郷土資料館
次に復た一停留所乗つて上町で降りた。代官屋敷と同じ敷地内の世田谷郷土資料館を見た。代官屋敷では二十三区内にこんな農村時代の建物が残つてゐるのかと感激した。世田谷郷土資料館はその良質な展示に驚いた。とはいへ今では観光客向けではなくなつたのかも知れない。箱根の大脇谷自然科学館の閉館を見てさう思つた。しかし代官屋敷と世田谷郷土資料館は区民向けの施設である。世田谷区民のみならず近隣の都民はぜひ訪れてほしい。


二月二十七日(金) 最初で最後の平日夜間組合事務所当番
今月の十八日から水曜に夜間労働相談を始めた。私は二十五日に手を上げた。その後、労組の情勢が変化した。人生には限界があり今後世の中の役に立つにはどうすればよいか。労組の役員を辞任すればホームページを月に二つは多く作れる。といふことを理由にすれば皆が円満だからそれを理由に今月末で書記長兼会計を辞任することにした。その記念に午後半休を取り都バス一日乗車券で探索した。
まづは先週、花がほとんど咲いてゐなかつた羽根木公園である。宿91に乗り新代田の終点で降りて羽根木公園まで歩いた。新代田の裏側あたりに感じのよい建物が並ぶ。そんなことを考へながら羽根木公園に到着した。往路は通行だけである。梅林は開花がまだ不十分であつた。

二月二十八日(土) 再度の豪徳寺と羽根木公園訪問
そのまま歩いて豪徳寺に行つた。裏側に到着したので右回りに寺の周りを一周した。緑地が周囲と繋がるか見たがすべて住宅地だつた。三重の塔は前回と同じく近くに行けない。今回は植木の工事中なので仕方が無いが前回も鎖を通路に付けてゐたから心無い観光客対策かも知れない。三重の塔に猫の像が幾つもあるといふが一つしか見つけられなかつた。次に招猫殿と奉納された数多くの招福猫児を観た。二十年ほど前に一度来たがそのとき招福猫児を観た記憶がかすかに甦つた。

羽根木公園に戻り梅が丘駅口から入るとすぐのところに満開の梅が三本ある。梅林は開花が不十分だが原産の梅、特設売店の前の寄贈された梅を興味深く観賞した。

二月二十八日(土)その二 王子から日暮里へ
午後三時発の宿91に乗りセシオン杉並で王78に乗り換へた。当初は北区神谷町で乗り換へて足立区役所まで環七を半周する予定だつた。しかし池袋六時に間に合はない。そこで終点の王子まで行き、バス乗り場案内板で草64を選択した。浅草まで乗るつもりだつたが車内で変更し田端新町一丁目で日暮里行きに乗り換へた。
日暮里駅の東側は舎人ライナーが出来たため雰囲気が一変した。しかし西側はかつての日暮里のままである。「おぢさん」といふ質屋は私が小学生のころ既にあつた。

三月一日(日) 岡倉天心記念公園と根津の街
岡倉天心記念公園に行つた。昭和四十二年の開園でそれ以前からあの道路はよく自転車で走つた。あるとき突然工事が終了したのだらう。公園が現れた。それほどなじみが深いにも関はらず六角堂と天心の像を観るのは初めてだつた。
そのままへび道(藍染川の跡なので道が折れ曲がり続ける)を歩き、俳優で三年前に亡くなつた大滝秀治の実家の前を通つた。根津に来るのは数年に一回だが来る度に古い木造の家屋が一軒また一軒と消えるて行く。ここ二十年間で一番古い建物は「スウハ曙」と書かれた木造のアパートである。インターネットで調べると「七つの子」や「雨ふりお月さん」などの童話が掲載された「金の星」の創始者である斎藤佐次郎が建てて、一時は金の星社がここにあつた。木造三階建てで九年前に解体された。さうか、九年も経つたのか。五年くらい前の話だと思つてゐた。
一番思ひ出に残る建物は芋甚の横を入り三軒目あたりにあつた確か米山といふそば販売店である。普通の商店は入口の扉を開けて中に入る。米山は路地に面してそば玉などを入れた上を向いたガラス棚が並んだ。冬は寒いだらう。夏も暑いが昔は夏に冷房なんか使はなかつた。二十年くらい前に米山の向かひにマンションの屋内駐車場ができた。あんなものを作られては路地の雰囲気が台無しである。その数年後に米山は閉店した。インターネットで調べると米山製めん所で写真を見ると店の奥で製麺したようだ。さういへばベルトコンベアだつたかそばだつたかが空中を連続し移動する光景を見た記憶が蘇つた。しかし奥はそれほど広くはない。或いは別の製麺所の記憶かも知れない。店には料金表か貼つてあり、冷むぎ、中華そば、日本そば、焼そば、うどんがいづれも八〇円である。上を向いたガラスの商品箱も五つある。

三月三日(火) 旧都電20系統で池袋へ
宮の湯の手前の昭和三十年代に建てられたと思はれるモルタルのアパートは建て替へられてゐた。宮の湯は煙突の下部しか残つてゐなかつた。煙突を撤去したといふことはいよいよ建物を壊すのかも知れない(煙突上部のあつたときの宮の湯)。根津駅の交差点に着くと丁度、上60系統の池袋行きが交差点を左折するところだつた。このバスはかつては箱崎町から池袋までで根津は通らなかつた。根津から池袋に行くには東大農学部前の停留所まで歩いてこのバスに乗るか、団子坂下まで歩いて草63系統に乗るか、都電20番の例外(臨時の標識を系統番号の上部に付けた)で行くかだつた。20番は護国寺を左折して江戸川橋に行くが例外は直進して池袋に行く。しかし30分に1本しか来なかつた。普通は都電を使つた。
上60系統はその後、御茶ノ水と箱崎町の間が廃止され、更に春日通り経由から氷川下(と言つても若い人には判らない。千石三丁目)の通り経由に変つた。氷川下経由に変つた理由はインターネットで調べると何と都バス国際興業共同路線の東52(東京駅−上板橋駅)の廃止で氷川下の通りからバスがなくなるための代替だつた。ずいぶん大物路線を引き継いだものである。その後、癌研前経由から向原経由に変つた。これは東京教育大学の移転で学04が廃止になつた代替らしい。しかも今は大塚止まりが普通で池袋まで行くのは朝夕だけである。このバスのうち池袋まで行くのに乗ると組合事務所のすぐ近くに止まる。
やむを得ず都電20の代替の上58に乗つた。今は例外がないから護国寺で降りて都電17の代替に乗らうといふ算段である。

三月六日(金) 旧都電17系統
護国寺(都バスになつてからは護国寺正門)で降りて旧都電17番に乗らうとしたところ15時40分が出たばかりだつた。次は16時10分である。この日は18時半に組合事務所に着くことになつてゐるから間に合ふ。しかしホームページとメールの引き継ぎをするからたぶん18時に来ると勘違ひするだらう。だから組合事務所まで歩くことにした。
ここで一つ失敗をした。組合事務所は池袋駅と大塚駅のどちらからも歩ける。しかし護国寺からだと遠い。一旦大塚三丁目に戻り大塚行きの旧都電16番に乗るとよかつた。そのことに気付いたのは一停留所くらい歩いたあと、といふことは昔の大塚坂下町の停留所辺りだつた。東池袋四丁目の少し手前を右折し都電の踏切を渡りサンシャインを目印に組合事務所に向つた。予想通り18時5分頃携帯に電話があつたからあと5分で着くと答へた。

三月十一日(水) 池袋からバスで帰路に
帰りは新宿まで池86系統に乗つた。発車した直後で20分待たされる。この路線はトロリーバス102系統の代替だが夜八時になると本数が激減する。やむを得ず次の早稲田車庫止まりに乗つた。運転手に訊いて高田馬場二丁目で早77に乗り換へた。ここで十分弱待つたため、池袋からの20分後がすぐ来る。しかし1分待つのも嫌なくらいに外は寒かつた。(完)


メニューへ戻る 前へ 次へ