六百六十一(乙) 東武啓志線、赤羽線、都営地下鉄

平成二十七乙未
一月十九日(月) 東武鉄道啓志線
私が中学生くらいのときに昭和三十年頃の東京区分地図を見ると、東武鉄道の上板橋駅から分岐線があり、啓志駅が終点だつた。たしか途中に田柄駅があつた。毎日新聞社のホームページから昭和三十一年の東京の地図を見ることができる。これによると田柄駅はなく終点の啓志駅とその他三つの支線に分かれる。私が見た地図では啓志駅だけだつた。これははつきり覚えてゐる。

一月二十日(火) 東武鉄道啓志線の検索結果
インターネットは便利である。東武鉄道啓志線で検索するとすぐ概要が判る。現在の光が丘地区は紀元二千六百年事業として当時は農地だつた地域に公園を造ることになつた。ところが戦争が始まり飛行場になつた。戦後は米軍が接収した。グラントハイツ建設責任者のケーシー中尉の名前を採つて啓志駅と付けたさうだ。占領下とはいへずいぶんふざけた命名である。
非電化で池袋から啓志まで国鉄のガソリンカーを借りて30分間隔で運転した。貨物列車は赤羽線(現、埼京線)から池袋駅と北池袋の間の旧西山信号所で東武線に乗り入れた。西山信号所の跡は昭和五十五年くらいまで存続した。赤羽線と東武東上線の間に線路が20mほど残つてゐた。
啓志線は昭和十八年に途中の陸軍第一造兵廠まで開通。昭和二十一年に啓志駅まで開通。二十二年十二月六日旅客営業開始、二十三年二月二十六日旅客営業廃止。三十二年啓志線全線閉鎖。旅客列車の走つたのはわずか二ヶ月だつた。

一月二十五日(火) 都営地下鉄大江戸線
グランドハイツは昭和四十八年日本に返還された。跡地は光が丘団地と光が丘公園になり都営地下鉄大江戸線が乗り入れた。大江戸線は調べると奥が深い。最初は普通の鉄道と同じ規格で計画された。ところがオイルショックで計画が凍結された。その後、車体を小さくて建設費を低減し、更にリニアモータでの建設が決まつた。
しかし軌間は広軌で浅草線と同じである。そのため環状部開通の時に工場は浅草線の西馬込に集約した。大江戸線はリニアモータだから浅草線は自走できない。そのため機関車が造られた。

一月二十九日(木) 都営地下鉄三田線の延長撤回
三田線は東武線に乗り入れる計画だつた。東武が高島平から成増までを建設するはずだつた。ところが東武は建設を撤回した。私の父は建設会社の経理だつたのでその辺の情報が早い。三田線は国道17号の本道(中山道)の地下を延長するかそれとも新大宮バイパスの地下を延長するかどちらかだと言ひ、その後、新大宮バイパスに決まつたと語つてゐた。ところが東北上越新幹線の建設と引き換へに埼京線を造ることになり、三田線の延長は取り止めになつた。
ここまでだつたら、東武は乗客を三田線に取られて減収になるからだと推定できる。ところが地下鉄有楽町線、副都心線が建設されるとこれに乗り入れた。三田線が駄目で有楽町線がよい理由は考へてみると四つある。(1)有楽町線なら東武の建設部分が無いから巨額な投資が不要、(2)三田線は東武百貨店のある池袋を通らない、(3)西武が乗り入れるので対抗上、乗り入れざるを得なくなつた、(4)埼京線が川越線に乗り入れたためこれも対抗上、乗り入れざるを得なくなつた
三田線を止めたのは(1)と(2)、当時は農地だつたのにその後、周辺が開発されて延長は不可能になつた。有楽町線、副都心線に乗り入れたのは(3)、(4)。
ここで面白い話をすると私の祖父が根津で店を出し、父の代に都外に引つ越した。根津のときは借家だつたが地主は家主とは別で根津嘉一郎だつた。我が家は家主に家賃を払ふのだから土地の所有者を気にする必要はない。根津氏は甲州出身だから武州とは無関係だが姓と同じといふことで購入したのだらう。嘉一郎は昭和16年に27歳で父親の跡を継いで東武鉄道社長に就任。その後53年間社長を続けた。このことが鶴の一声で経営方針を決めなかつたか興味のある課題である。

一月三十一日(土) 都営地下鉄新宿線の延長撤回
似た話に新宿線がある。西側は京王線に乗り入れるのに東側は本八幡で止まつてゐる。本来はその先に千葉県営鉄道を建設するはずだつた。しかし千葉ニュータウンは人口34万人の予定が昨年3月開発を完了し人口は9万人に留まつた。建設しても採算が取れないため計画は撤回された。

二月一日(日) 赤羽線の貨物列車
啓志線への貨物列車は赤羽線(現埼京線)の池袋と板橋の中間から乗り入れた。だから赤羽線の貨物列車について述べると、かつては赤羽線を通過する貨物列車も多かつた。昼間はそれほどでもないが深夜は多かつた。埼京線の工事が始まると赤羽駅は貨物線とは切り離された。このとき板橋駅は貨物を扱つてゐたから池袋から袋小路の赤羽線に貨物列車が乗り入れるようになつた。埼京線の工事が終つても貨物線とは接続しなくなつた。
当時の鉄道趣味雑誌(鉄道ファン、鉄道ビクトリアル、鉄道ジャーナル)にも赤羽線が埼京線になることで赤羽口の貨物接続がなくなる記事は載らなかつた。私が鉄道を調べるきつかけはこのように大切な情報を見逃すことだがその後、私が鉄道にそれほど興味を持たなくなつたのは民営化された後はそんなことは鉄道会社がやればよいし、民営分割のときに動労の取つた醜い行為に興ざめしたからであつた。
赤羽駅は北側に旧軍需施設向けの引込み線跡があつたが、南側にも車両会社への引込み線があつた。車両会社といつても一両か二両入る屋内庫があるだけだつた。
赤羽駅はかつて貨物線が駅の北側で複々線になり一方が田端操駅に、もう一方が赤羽線になつた。かつてあつた貨物取扱への入れ替へは、複々線の東北線側、赤羽線側のどちらの本線も使つた。あともう一つ、東北線旅客線が普通はホームに収まるが、上り列車で回送車を二両くらい後方に連結したため役に到着して乗客が乗り降りするときも回送車が踏み切りに掛かつて開かなかつたことがある。たぶん高崎か郡山、一関から尾久への回送だらう。
車両会社と云ひ列車後方の回送車と云ひ、当時は手作りの妙味があつた。それが無くなつたのも鉄道に興味を示さなくなつた理由である。

二月七日(土) 高島平団地
地下鉄三田線が志村(現、高島平)まで開通したとき辺りは農地だつた。その後、高島平団地が建設された。私は高島平団地が建設される前と後に赤羽方面から見たことがあるが、あるとき古代の遺跡のような建物が遠くに見えることに気付いた。事情を知る人があれが高島平団地だと教へてくれた。その後、高層団地やマンションやビルが次々に建設されて、高島平団地は目立たなくなつた、といふか見えなくなつたはずだ。
かつて同じ光景を香港で見たことがある。平成三年頃に香港に職場旅行したことがある。当時は香港から中国大陸に行くには一日数往復の客車列車に乗るしかなかつた。ビザも必要だつた。職場の仲間は香港市内を見物してゐるのだらうが私は一人で落馬州といふ大陸側が見える展望台に行つた。イギリス政府香港総督府の警察官がさりげなく配置されるなかを頂上の展望台から大陸を見ると、かすかに古代遺跡のようなものが見えた。高島平団地と同じ光景だつた。

農地の中に建設された当時の6号線(現、三田線)の話題を一つ挙げると、車内の蛍光灯が架線の直流を半導体で交流に変へるか直流用蛍光管を用いたのだらう。発車のときに蛍光灯の輝度が下がつた。かつての銀座線は役に着く手前で車内照明が一瞬消えた。丸の内線は消えなかつた。その理由は直流を電動発電機で交流に変へるため回転部の慣性が消へることを防いだのだが、6号線は更に最新の技術を用いたが故に輝度が下がつた。あと蛍光灯の下に透明なプラスチック製の二本の細い棒があつた。スキー板などがぶつかつても蛍光灯が破損しないためだらうが、何となく等京都交通局の設計は「ださい」。そんな印象を受けた。ダサイ玉といふ言葉が流行つたのはそれから8年ほど後だつた。今では市街地が高島平を越えて大宮まで続いたからそんな流行語も死語になつた。(完)


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