六百五十七、1.NHKを民営化させよう(なぜ普通の話し方をできないのか)、2.久しぶりにまともな大河ドラマ
1.NHKを民営化させよう(なぜ普通の話し方をできないのか)
平成二十七乙未
一月七日(水)
ふざけた話し方しかできない人々
三が日にNHKテレビを観て気付いたことがある。NHKのアナウンサ崩れ(アナウンサになれなかつた人たち?
キャスタとか称する人たち?)はなぜふざけた話し方をするのか。普通に話せばよいではないか。
テレビの出演者を決めるのに公正な基準はない。だからコネや人脈やその他が関係してだんだん出演者が劣化する。
するとふざけた話し方がテレビ慣れした話し方だと勘違ひする。これはアナウンサ崩れだけではない。テレビに出演する
政治家も同じである。普段は政治屋と書くのになぜ今回は政治家と書くかといへば、市長や町長だからである。議員は
政治屋だが市長や町長は政治家である。さう信じて来た。
民放テレビの実業団駅伝を一日に観て気付いた。沿線の市長、町長のうちで普通の話し方は一人だけだつた。残りは
テレビ出演者を真似したふざけた話し方である。なぜさうなつたかといへば毎年テレビに出演するからだ。慣れてくると
ああいふ話し方がマスコミ慣れした大物政治家だと勘違ひするのだらう。冗談ではない。真面目で誠実な話し方こそ
政治家の必須条件である。
そのようなご時勢だからNHKのアナウンサ崩れがふざけた話し方をしてもよい
といふ反論もでよう。しかしNHKは国民の模範とならなくてはいけない。
一月十一日(日)
裏方は裏方に徹するところに美学がある
正月の一日と二日にNHKの教養番組を幾つか見た。「タカが集団でスズメバチ巨大巣を襲う」「京都御所秘められた千年の美」「京都南禅寺界隈別荘群」「「カラーでよみがえる東京100年」である。このうちのたぶん四番目の「カラーでよみがえる東京100年」だと思ふがこれが極めて悪かつた。
普通の番組は次の話題に移るときそのまま画面を切り替へる。今から三十年くらい前だらうか、画面がひし形が現れて大きくなり別の画面に切り替はるものが現れたがすぐ廃れた。ところがそれと同じ発想で指で切り替へる方法を突然採用した。タブレットで小さな画面を指で開くと大きくなる。これと同じ方法である。次の話題に移るときに顔は見えないものの操作する人が現れて指が写り広げると次の場面に切り替はる。一回か二回写すならよい。画面が切り替はる度に出てくるので実に煩はしい。三十年前のひし形の場合は操作者は画面に出ないからまだよい。今回は操作者が写る。実に悪質である。裏方は裏方に徹しなくてはいけない。
一月十三日(火)
「年忘れにっぽんの歌」と「紅白歌合戦」
大晦日は夕方にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」を観た。やはり日本には歌謡曲が合ふ。途中までしか観なかつたがそれは夕食のためで内容がつまらなかつたためではない。夕食後は「紅白歌合戦」を少し観た。紅白を観るのは十五年ぶりだらうか。しかしなかなかよい曲をやつてゐた。全国で有名になるにはそれだけ優れる必要がある。最近のジャンルの曲は聴かないがたまに聴くと決して悪い曲ではない。
と同時に途中から観たので紅白に違和感を感じなかつた。最初から観たら如何にも天下の紅白だといふ傲慢な態度が目に入つただらう。紅白はその年の有名になつた曲ばかりを集めるから優れる。紅白自体が優れる訳ではない。しかも民放でもこの程度なら創れる。改めてNHKは民営化すべきだと思つた。
一月十六日(金)
一億総白痴、マスコミの横暴
テレビが世に出た時、一億総白痴といふ言葉が流行した。それでも当時は白黒だつたからまだよかつた。現実ではなくテレビを見ているといふ感覚があつた。我が家がカラーテレビを購入したのは私が高校二年のときである。今はカラーだから現実との区別ができなくなつた。NHKを観ると本当にこの言葉を思ひ出す。
そして時間の経過とともにマスコミが横暴になつた。テレビだけではない。新聞も一方通行だから朝日新聞による捏造記事が現れた。それもおわびは原発の次にして少しでも軽く見せようといふ悪質さである。今はインターネットにより国民のだれもが発言できる時代になつた。国民の言論でマスコミの横暴を批判しようではないか。(完)
2.久しぶりにまともな大河ドラマ
平成二十七乙未
一月十九日(月)
今年は久しぶりの良作
昨年の大河ドラマ「軍師勘兵衛」は演出がひどかつた。それに比べて今年の「花燃ゆ」は久しぶりに演出がよい。最近は大河ドラマを観ても数回で観なくなることが多かつた。「軍師勘兵衛」「平清盛」「龍馬伝」はいづれも最初の数回を観てあまりの演出の悪さに観なくなつた。
新撰組は途中の山南敬助が切腹するところまで観た。これは演出が悪いのではなく、後半は近藤勇とその取巻きの独裁と新撰組没落の物語で見るに忍びなかつた。三十五作の秀吉までは毎年観たが、翌年からは我が家の子どもが大きくなつてきたので観なくなつた。
一月二十日(火)
中身の濃い演出
「花燃ゆ」は話の中身が濃い。「軍師勘兵衛」「平清盛」「龍馬伝」のように演出の悪い大河ドラマは中身が薄い。一昨日の「花燃ゆ」は文と久坂玄瑞が逃げる場面が2回あつた。一つ目は黒船が現れたといふので藩が立ち入り禁止の検問を設けたところ、二つ目は神社のおみくじの場面である。検問を逃げれば追い着かれるし神社のおみくじは賽銭泥棒ではないのだから逃げる必要は無い。これは劇としての笑ひである。落語でそそつかしい人が登場して笑ひをさそつたり漫才で片方がとぼけたことをいふ。それと同じである。歴史ドラマとはいへこういふ演出は話の展開を速めるから大歓迎である。話の中身が濃いとは話の展開が速いことである。
一月二十二日(木)
紹介で「男爵」は極めて不適切
ドラマが終つたあとで、ゆかりの地の紹介がある。ここで群馬県を紹介し初代県令が小田村伊之助で後の男爵だと紹介したがこれは極めて不適切である。男爵とかいふ地位は西洋の猿真似で偽造したものであり、しかも戦後は廃止された。なぜ小田村を紹介するのに男爵だといはなければならないのか。
これだけでもNHKは解体したほうがよい。
一月二十六日(月)
同じ顔に見える
「花燃ゆ」は第一回から視聴率が少し低い。しかしこれは番組の責任ではない。第一回を見て視聴率が下がつた訳ではないからだ。しかし批判すべき点はある。まづチーフプロデューサが女性雑誌にイケメンを揃へたと発言した。
この発言を知る前の感想だが、出演者が皆、同じ顔に見える。まづ吉田松陰と小田村の区別がつかない。松下村塾の塾生たちの顔が同じに見える。周布政之助と椋梨藤太が同じ顔に見える。何回か登場すると区別が付くようになるが、最初区別がつかない。それは個性のある俳優を選ばずに同じ種類の顔ばかり集めるからだ。イケメン発言を知つてなるほどと判つた。昭和五十二年に放送された花神では桂小五郎が米倉斉加年、伊藤俊輔が尾藤イサオ、井上聞多が東野英心、椋梨藤太が内田稔と、いづれも一目で顔を区別できる役者ばかりだつた。
次に、昨日放送された第四回は急に演出が悪くなつた。松陰が唐丸籠で萩に付くと小田村や家族が興奮して近寄り警備の者に棒で遮られるが、藩士の小田村や藩士の家族がそのようなことをするはずがない。行つたら悪くて家禄没収、良くて隠居であらう。江戸の牢で松陰が密航の話をするくだりも誇張が過ぎる。
まだある。藩の重役会議で椋梨藤太が藩主に向ひ喧嘩口調で松陰の入獄を進言するはずがない。番組も四回目を迎へてNHK制作チームが素人並みだといふことが現れてしまつたのかと失望した。それだけ今回は期待したのだが。
一月二十七日(火)
吉田松陰
吉田松陰役の伊勢谷友介は人選が悪い。伊勢谷友介が悪いのではない。配役が合はない。つまりNHKの失態である。吉田松陰は温厚だが情熱を持つ。伊勢谷友介は温厚な役には合つても情熱は出せない。あと世間から見れば頭が良すぎて非常識に見えるかも知れない。そこが出せない。イケメンばかりを揃へた弊害がここにも現れる。(完)
メニューへ戻る
前へ
次へ