六百五十五、駅伝を国技にしよう

平成二十七乙未
一月四日(日) 新、山の神誕生
今回は駅伝を国技にしようといふお話である。大相撲はかつての美しさがなくなつた。日本人選手は周囲に合はせる。外国人選手は 勝敗だけにこだわる。だから規則にない部分を明文化しなくてはいけなかつたのに相撲協会は怠つた。相撲の代はりに駅伝を国技に しようではないか。勿論相撲が将来国技に復活することは歓迎である。
かつて箱根駅伝で柏原が登りの部分で前を走る選手をごぼう抜きにした。それ以来、柏原は山の神と呼ばれ今でも大変な人気である。 だから一昨年と今年の実業団駅伝は大変な混雑だつた。ところが成績はどちらも平凡なものに終つた。その理由は柏原は登りにだけ 強い。昨日の実業団駅伝で柏原の走る区間は登り坂の上に風が強く、地元市長の事前説明では1000mを登るに匹敵するさうだ。 それでも駄目だつた。柏原は足の筋肉や重心が登りに合ふのだらう。だから箱根駅伝のときも登りは強かつたが最後の芦ノ湖に下る 部分で他の選手に詰められ、多くの視聴者がはらはらしながら応援したものだつた。
ところが今回神野が新、山の神になつた。下りも強いといふからオリンピック選手になるかも知れない。柏原の樹立した従来の歴代記録を 二十四秒更新した。今回から函嶺洞門が通行禁止になりバイパスができて20m伸びたため、実際は二十八秒更新したに等しい。柏原は 卒業して三年目でもこれだけ人気を保つのだから神野はその十倍は人気が出てもおかしくはない。

一月五日(月) マラソンと駅伝はまつたく異なる
マラソンが個人競技なのに対して駅伝は団体競技である。だからまつたく性質が異なる。十年以上前のオリンピックで、女子マラソンの 日本選手が途中で具合が悪いのに走り続けようとして夫がもう走つては駄目だと声を掛けたといふニュースを読んだことがある。この 記事には極めて不満である。日本代表として国民の税金やその他の寄付金を頂いて参加した以上、チームの監督やコーチが判断する ことだ。個人が口を出すなら税金や寄付金分を返還すべきだ。ここで日本のマスコミは競争がほとんどないから劣悪である。その分を 割り引く必要がある。夫は組織としてではなく個人的にさう叫んだだけかも知れない。しかし新聞はさうは書かなかつた。
いづれにせよマラソンは個人競技である。日本の気風には駅伝が合ふ。

一月七日(水) 年齢別駅伝を
競技は国民の健康を増進するものでなくてはいけない。ところがどの競技も選手は若い人たちばかりである。日本が率先して年齢別に 駅伝をすべきだ。大学駅伝、実業団駅伝に続いて、企業別でも県別でもよいから三十代後半から四十代前半、四十代後半から五十代 までの駅伝をすべきだ。そしてそれをすべての競技に拡げるべきだ。

一月十日(土) 相撲とオリンピックは復活できるか
明治四十二年までは相撲を国技だと思ふ人はゐなかつた。この年両国に相撲競技場を作り国技館と命名した。ラジオやテレビで両国国技館 やその前は蔵前国技館と放送するから、いつの間にか相撲は国技だと思ふ人が増へた。しかし今や国技とは言へなくなつた。これを回復する には、規則に細かい礼儀を明文化するか、勝負だけではなく体操やボクシングの採点のように点数制にするのがよい。あと競争の無い組織は よくない。相撲は東西二つに分けるべきだ。昨年末に親方を70歳まで再雇用する制度を作つたが、そんな制度を作るより親方として残れなかつた 人たち(相撲部屋と個々に契約した若者頭など)を協会員にする制度を考へるべきではないのか。

オリンピックについて言へば、かつてのアマチュア主義のような理想が必要である。理想がないと単に体力自慢になつてしまふ。理想として何が あるか考へるとアマチュア主義の復活が一番よい。(完)


メニューへ戻る 前へ 次へ