六百四十六、玉川上水、神田上水往復記
平成二十六甲午
十二月十二日(金)
玉川上水
先日の夕方に組合員の団体交渉が杉並区内であつた。会社が終つてからでは間に合はないので午後半休を取つた。偶然この日は午前中出張で
場所が団交会場の近くである。仕事が終つた後にまづS駅に行つた。
ここに労組の事務所近くの中華料理店と同じ名前の店がある。昨年の大会後の交歓会はその中華料理店で行なつた。組合の執行委員会の後も
よく皆でこの店に寄る。そこと同じ名前である。たぶんこちらが本店なのだらう。昼食を食べようと寄つたところ、月曜日は休みだつた。
そのまま玉川上水を井の頭に向かつて歩いた。途中で昼食を取る予定だつたがめぼしい店がなく、午後三時ころに井の頭駅前のコンビニで買つて
園内で食べた。途中までは首都高速で暗渠化されてしまつた。途中に新興宗教の施設かと見紛うばかりの大きな赤色の寺があつた。真言宗の別院
である。私は玉川上水の沿線を昭和六十年代に何回も歩いたから、ここに昔はなかつたことをよく知つてゐる。説明板を見ると真言宗別格本山の末寺
の川崎身代り不動尊の東京別院とある。その巨大な建物には驚くが、新しい宗教には見る価値がないし巨大な建物はそれだけ信者からお布施を集めた
ことだからそのまま素通りした。
まもなく首都高と別れて昔ながらの玉川上水が現れた。しかし平行して道路を建設中で様子が変である。玉川上水は周囲の田園風景と一体となつた
ところに価値がある。これ以上都市化を進めるのは止めるべきだ。人を首都圏に集めず地元を活性化すべきだ。
十二月十四日(日)
三鷹台
玉川上水を上流に向かふと地名が井の頭になつた。右折して神田川方面に向かつた。井の頭線に至り駅は三鷹台だつた。予定より一つ下流だつた。
私が中学か高校生のときにラヂオで井の頭線の駅名は美しいものが多いといふ話を聞いた。確かにそのとほりである。小田急スーパーで昼食を買はう
としたが、適切なものがなかつた。そのまま上流に向つたが両端が民家の道をあちこち曲がりながら井の頭公園に至る。その前にコンビニで昼食を買つた
のは先日書いたとほりである。
井の頭自然文化園といふ動物園に行かうと歩いた。なぜここが動物園だと判るかといへば昔TBSラヂオで子供電話相談室といふ番組があつた。今から
四十年前の記憶だが無着成恭と並んで「杉浦ただし」とかいふ人が井の頭自然文化園の肩書きで出演してゐた。無着成恭は最初明星学園教諭だつたが
後に明星学園教頭の肩書きになつた。今思ふと恐ろしい話である。無着成恭はたまたま「やまびこ学級」で有名になつた。私はこれを読んだことはない。
しかし「日本の新興宗教」といふ岩波新書にまで出て来る。私は当時中学生だつたがこの引用は不適切である。これだけは判つた。その人がマスコミの
影響で教頭になる。無着のような人は必要だが生涯無冠でなくてはいけない。
その無着とラヂオで共演の杉浦ただし(インターネットで調べると杉浦宏)が勤務したところだから動物園だらう。尤もこれもインターネットだが杉浦氏は
水族館が専門である。子供電話相談室は動物の相談が半分を占めるから一般動物の回答者がゲストで毎回出るか、あるいはアナウンサーの見城
美恵子がいいかげんな質問(例へば学校で亀は何匹飼つてゐるのか、亀の名前は何かなど)をする間に回答者(或いはスタッフ)が百科時点で調べる
といふやり方だつた。
そのような訳で時間は十分にあるから寄らうと思つた。ところが案内図を見ると池から少し離れてゐて曲がる場所を間違へた。そのまま池の周りを一周
して神田川を下つた。
十二月十八日(木)
神田上水
帰路は神田川を歩いた。かつて神田上水と呼ばれたから玉川上水と同じだらう。今までさう思つてゐたがまつたく違ふ。玉川上水は両岸が土の遊歩道
だが神田川は舗装された道路である。しかも水面が低い。これは洪水対策で川を掘つて深くしたのだらう。ほとんどが街中だが一部に武蔵野の雑木林
の残るところがある。一箇所寄つたが公園だつた。公園はそれほど木が多い訳ではない。それでも木が多く感じられる。それだけ自然が少なくなつた。
玉川上水も神田上水も周囲に自然があつて調和する。
十二月十九日(金)
小田急バス「宿44」系統
組合員との待ち合はせの駅には一時間前に着いた。時間があるので近くの道路を少し歩くと小田急バス「宿44」系統のバス停がある。時刻表を見て
驚いた。一日二往復である。一昨年とその数年前で合計三往復乗つたことがある。インターネットで調べると一昨年の十一月に十往復が八往復に減つた。
今年三月に八往復が二往復に減つた。こんなに減つた理由はバスカードの廃止にある。代はりにできたSuicaのバス特は同じ月に千円、三千円、五千円
乗るとポイントが付く。だから通勤通学客はよいがたまに乗る人は利点がない。だから長距離の路線バスはどんどん廃止されて来た。例へば都バスの新宿
から駒沢陸橋、王子から亀有である。
更に調べてみると、1949年に119系統として都営、京王、小田急の共同路線として東京駅丸の内南口から武蔵境駅南口まで開通した。東京駅から新宿駅
西口までは急行運転で、日比谷、桜田門、三宅坂など十一停留所(昭和四十年)しか止まらなかつた。昭和四十五年に東京駅から新宿駅までを廃止し、
小田急単独になつた。
急行運転といふと国際興業の浦20系統を思ひ出す。浦和駅から池袋駅北口までを結びバスの前面内側に「急行」といふ小さな札を下げた。都内で
二つか三つ通過する停留所があるだけだつた。
時間があるので駅に接続したキッチンコートといふスーパーに入つた。かつては京王ストアだつたので委託したのかとインターネットで調べると、今でも
直営だが安さが売りものの京王ストアと少し高級感を出したキッチンコートの二系列あることが判つた。このあと外にゐると寒いので本屋に寄り約束の
時刻に改札前に行つた。団体交渉は組合側が私と組合員の二名、会社側が七名でうち弁護士が二名。多数を相手に一人で交渉するのは痛快である。
しかし組合の方針で交渉は組合員の外に複数で行ふと決まつたので、最後の単独交渉となつた。(完)
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