いえい 「日本の絵画」読書記


六百三十六(乙)、「日本の絵画」読書記(日本画復活大作戦)

平成二十六甲午
十一月三十日(日) 仏教絵画、世俗画〔唐絵(水墨)系、やまと絵系〕
日展を観た四日後に図書館で守屋正彦氏「日本の絵画」といふ本を借りた。表紙の裏側には日本の絵画の年表があり、 仏教絵画、世俗画〔唐絵(水墨)系、やまと絵系〕、洋風画の四つに分かれてゐる。文人画は唐絵(水墨)系、江戸期狩野派 は唐絵(水墨)系とやまと絵系の境界線上、琳派と浮世絵はやまと絵系である。
同じく口絵部分に1970年に小倉遊亀が描いた「姉妹」といふ作品がある。「背景を描かない伝統的な手法」といふ題の 説明があるが、洋服を着てゐても二人の児童または幼児の全身画はまさしく伝統的な日本画である。

十二月五日(金) 第一章仏教絵画、その一
第一章「仏教絵画」は、章を紹介する文章が冒頭から拙劣である。
『西遊記』の孫悟空は雲に乗り、空を翔る。浄土からお迎えにくる阿弥陀如来も、現実の重力とは無関係に雲に乗って やってくる。仏教絵画は、東洋の宗教的イマジネーションが創り出したミラクル絵画といえよう。

意味のない文章の羅列である。続いて
わが国の仏教の受容は極めて政治的で、国家仏教として統治に利用したり、付随して建築や都市計画など、広く大陸 文化を積極的に取り組んできた。

わが国の仏教の受容は上から行なはれた。しかしそれを政治的と言つてしまふと極めて悪い意味になる。守屋氏の著者 紹介を見ると東京教育大学大学院を出て博士(芸術学)、山梨県立美術館学芸課長を経て筑波大学大学院教授である。 それなのにこの程度のことしか書けないのは日本の国立大学教育と公立博物館が戦後七十年で官僚化、低質化したため ではないか。

十二月七日(日) 第一章仏教絵画、その二
五五二年、百済の聖明王から欣明天皇に仏像が献上された。ブロンズに金メッキが施された姿は光り輝いて、帝は「仏の 相猊(かお)ぎらぎらし」と驚き、その像は「金人」と呼ばれた。

これが第一章の先頭、といふことはこの本の本文の最初である。まづ金メッキの光り輝く仏像を始めて観れば驚く。そのとき の帝の感想を書いても無益である。否、無益では済まされない。製紙、印刷、製本するための資源浪費とこの本を読むことに より日本画嫌ひになる人の人数と、それにより日本の社会が伝統を軽視することによる混乱と社会不安の経済的損失を考慮 すれば、こんな駄文を書いてよいはずがない。結局この見開き(この頁と次の頁)の絵画は捨身飼虎(しゃしんしこ)図と阿弥陀 浄土図だけである。この文章はまつたく日本画の解説に役立つてゐない。といふことは守屋正彦氏が東京教育大学大学院で 博士号(芸術学)を取得するまでの国庫補助分と、山梨県立美術館学芸課長時代県税負担分と、筑波大学大学院教授となつて 以降の学生に指導して有益だつた分を控除した残りの人件費分が無駄かどうか会計検査院は精査すべきだ。

十二月九日(火) 第一章仏教絵画、その三
現在でもそうだが、ひとつの家に仏壇と神棚がある。外国の人は不思議がるが、ある意味で日本人の原点ともいえる。

これはひどい文章である。明治維新のときに神仏を分離した。だから仏壇は寺院、神棚は神社だが元は同じ組織だつた。神仏 習合は日本だけではなく釈尊の時代から続く。かう説明すべきだ。外国の人が不思議がる理由は何もなくなる。
私がこの書籍を取り上げたのは仏教絵画で一章を設けたことと漢画とやまと絵を区別して扱つたことで、賞賛の予定だつた。 改めて読むと批判ばかりになつてしまつた。次の図もこの書籍を取り上げるきつかけとなつた。これは良質な情報である。
                  肖像画の流れ
中国・唐様式の肖像画
空海が持ち帰った
真言五祖像など
 →
影響
祖師像
各宗派の開祖や
高僧を描く



 ↓
中国・宋元時代の肖像画
写実的な個性的な
高僧の絵
 →
影響
頂相
禅宗で師から弟子に
法を伝えたあかしと
して与えた肖像画
(漢画の系統)
似絵
公家・武家の、特に
顔を写実的に描いた
肖像画
(やまと絵の系統)



新しい時代の肖像画
将軍や戦国武将などの姿を、生前の
祝いごとや死後の遺影として描く





十二月九日(火) 第二章絵巻物、その一
この書籍のために特集を組んだのは失敗だつた。最初読んだとき文章が頭にほとんど入らなかつたが日本画は頭に入つた。思へば日本画は守屋氏の 文章とは無縁に遙か以前より存在する。それよりこの書籍は漢画と大和絵の双方を扱ひ、章立てでは仏教絵画、絵巻物、水墨画、琳派・文人画・写生画、 浮世絵などなかなかよい。しかしよいのは章立てだけで中身ではなかつた。絵巻物は冒頭から
古代日本の文書は、かつては漢字による表記だけだったが、それは日本人の感情を十分に伝え得るものではなかった。かな文字が発明されて(中略) その代表作が十一世紀初期に紫式部の著した『源氏物語』である。この物語は千年の時を経た現代でも新たなブームを巻き起こしているように、発表されて 百年ほどたった頃、またみごとな絵巻物としてよみがえった。

これで見開き、つまり二ページ分の文章の半分を超える。さすがに次は絵巻物の解説だらうと期待するが、その次の節で今までの半分、といふことは 見開き二ページの3/4を無駄な文章を書いた挙句、顔の表情は引目鉤鼻など三十八行中のわずか九行、つまり1/4弱で絵巻物の解説をする。
次の見開き、つまり二ページ先では、
◆絵画の自由なイマジネーション
仏教美術はシュルレアリスムのようである。(中略)この世の現実を描く一方で、仏教的宇宙という別のヴァーチャル(仮想)空間をも示すのだ。


これは酷い文章である。

十二月十四日(日) 第二章絵巻物、その二
第二章にも良質な情報はある。
縁起絵巻は社寺創建の由来や、本尊の霊験あらたかなエピソードを描いたもので、権威を示し、広くその功徳を伝えて信仰心を高めるために作られた。 (中略)縁起絵巻が本格的に作られるようになるのは、鎌倉時代に入ってから。その頃仏教は貴族という巨大なパトロンを失い、新しく大衆のためへと 転換がはかられていった。
この頃台頭した時宗などの新仏教では、大衆に飛び込んで教えを説き、宗派を開いた祖師伝絵がさかんに作られた。 これに対抗するように旧仏教や神社の側は、いかに伝統と威厳が自分の寺にあるかを宣伝するため、縁起絵巻を数多く作ったのである。


かう云ふ良質な情報ばかりなら書籍を賞賛しようといふ気になる。但し段落の題の「宣伝メディアとして使われた絵巻」は不適切である。現代のものを 紹介するならこれでもよい。鎌倉時代のものを紹介するにはそれに相応しい言ひ方がある。
次の見開きにも良質な情報が載る。
縁起絵巻が社寺の由緒を語る一方で、鎌倉時代になると社寺の歴史や神仏の霊験よりも、寺を開き信者を導いた高僧その人に興味の対象が 移って、高僧(祖師)絵伝が数多く作られるようになる。

今回も段落の題「高僧絵伝を生んだ鎌倉期の人間主義」がよくない。人間主義とは何か。高僧主義ならまだ許容できる。高僧崇拝なら更によい。 この章の最終ページに「敗戦後の激しい非難のなか、伝統を守り続けた画家たち」といふ表題と「日本画滅亡論と院展」といふ段落題とともに 次の文章がある。
日本は太平洋戦争後、伝統的・国粋的なものを強く否定した。日本画は国粋主義的であるとの厳しい批判が行われる。そのことは画壇に大きく 作用した。官展系の山本丘人・上村松篁らが新しい日本画創造を目指し、創造美術(のちの創画会)を結成した。(以下略)
戦後の批判のあおりを最も深刻に受けたのが、やまと絵の古典絵画などを多くテーマにしていた院展であった。しかし横山大観・小林古径・安田 靫彦らは非難に耐え、信念をもって制作を続けた。


日本の軍国主義は伝統的・国粋的なものとは無縁の西洋猿真似から発生したものであり、また列強による植民地への恐怖が 過剰反応し、日英同盟で西洋植民地主義への批判を放棄し日露戦争後に慢心になつた。そこまで見なくてはいけない。守屋氏は 日本画の専門家なのだからその程度は主張すべきだ。政治には中立だといふならそれでもよい。しかし山本丘人・上村松篁の作品は 創造の要素があつても全体では伝統を踏まえてゐる。山本丘人の場合は西洋画の影響を受けた作品があつても作品の比率では 少数である。上村松篁は伝統から離れたものがあつたのとしても同じく比率では多くはない。さう云ふことを解説すべきではないのか。 このページは最後に
新古典主義は院展に生き続け、それだけに当初は日本画滅亡論の批判の的になったのである。

と書くが、ずいぶん抽象的な書き方である。といふよりこのページの先頭で日本画が批判されたことを書いたから同じことを何回も 書く必要はない。それよりこの書籍は初版第1刷が平成十四年、第7刷が二十年、改訂版第1刷が二四年である。私は今年の 日展を観覧したが伝統離れが著しい。世の中は西洋化が進んでも日本画ほどひどくはない。山本丘人・上村松篁の作品はまぎれもない 日本画だがその後継となるとなぜこんなになつてしまふのか。その理由の分析はできないまでも少なくとも現象は言及すべきだ。守屋 氏は山本丘人・上村松篁の次世代で止まつてしまひ、次々世代以降を無視した。

十二月十五日(月) 第三章水墨画、その一
第三章も章を紹介する劣悪な文章で始まる。
わが国が中国の水墨美術を本格的に学ぶようになったのは、禅宗文化を取り入れようと務めた鎌倉後期からである。蒙古襲来によって、 中国と日本の文化の違いをまざまざと見せつけられた武将たちは、禅宗を含めた大陸文化の積極的な受容を行った。

まづ蒙古と中国は異なる。蒙古が中国を支配して元を建国したとしても、日本では昔から蒙古と中国は誰もが別だと考へる。それを無理やり 同一視した。そればかりか日本は古来中国と交流があつた事実を無視し蒙古襲来によって、中国と日本の文化 の違いをまざまざと見せつけられたとは驚く。本文も
建長寺建立の二十余年後、元(モンゴル)が日本に襲来。二度の元寇は彼我の科学力、文化の違いをいやが上にも見せつけ、鎌倉幕府を 崩壊へと追い込んだ。日本は大陸文化の受容が急務となり、禅宗文化を本格的に学ぶことになった。

これはひどい文章である。元が日本に襲来してから建長寺を建立したなら禅宗文化を本格的に学ぶことになるといふ守屋氏の主張にも一理 ある。しかしさうではない。建長寺を建立して二十余年してから元が来週したのである。鎌倉幕府が崩壊したのは幕府の財政破綻と御家人の 没落が原因であり、彼我の科学力、文化の違いが原因ではない。二度の元寇の後に日本が学ぶ決意を するとすれば科学、軍事であり禅宗文化であるはずがない。またこのころ末法に入つたと信じられたことが禅宗が広まつた理由ではないのか。 それまで天台宗と真言宗は三学の一環として瞑想を行つた。しかし鎌倉仏教は座禅だけ、阿弥陀仏への信仰だけ、X経への信仰だけに なつた。

第三章で有益なところは狩野正信、元信父子は応仁の乱で奈良へ逃れ、そこで学んだやまと絵を水墨画に採り 入れたの部分であらう。

十二月十六日(火) 第四章と第五章
第四章と第五章は批判するところがない。他の章もこのように書けばよいのになぜできぬのか。第五章の最後に維新後の文人画についての 記述がある。
明治維新後も、文人画家たちの活躍の場は多かった。ところがフェノロサによる南画批判や、日清戦争の勝利によって、状況は大きく変わる。 戦勝意識はナショナリズムを生み、やまと絵に根ざした新しい日本画運動へと傾斜していった。さらに近代の展覧会形式は出品形態までも 変化させ、大正時代に入る頃にはしだいに縦長の掛け軸などは場を失っていった。

私は一ヶ月前からフェノロサや岡倉天心の文人画批判は文人画の衰退には影響なく、日本のアジア離れが文人画衰退の原因だと考へる ようになつた。その理由は或る私立美術大学の日本画の享受と話す機会があり、その方に文人画衰退の理由を聞いたところ前者だつたので、 逆にこの二者しかないなら後者だと確信するに至つた。守屋氏は両方を並べたとはいへ、後者も原因に挙げてゐるところは私と同じである。

十二月十七日(水) 第四章と第五章、その二
第四章と第五章をもう一度読み返すとやはり拙文は存在する。
戦国・桃山時代から江戸時代まで、狩野派は時の権力者をパトロンとしてトップの座を維持し続け、(中略)しかしこの間、政治の中心が江戸へ 写ろうとする頃、狩野派は大きな変革を余儀なくされる。幕府という大組織が移動することは、業界最大手の狩野派にとってはピンチであり、 逆にチャンスでもあった。ピンチとは新しいパトロンに認めてもらえるかどうかであり、チャンスとは他派をふるい落とすことだった。

これほど無駄な文章は珍しい。ましてや大学教授がこんな駄文を書いては絶対にいけない。まづ変革を余儀なくされたならどんな変革だつたか 書くべきだ。チャンスとは他派をふるい落とすことだつたといふのなら、狩野派が他派をふるい落とさうとした具体例を挙げるべきだ。こんな 非学問的な駄文は珍しい。

このような現象がおきる理由はかつて浪曲を調べたとき思つたが浪曲が好きではないの研究者をしてゐる。日本画の場合はそれほどでは ないにしても研究者が少ないから質が低下した。ここが問題である。(完)


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