六百三十六(甲)、日展を観て 平成二十六甲午
十一月十五日(土) 日展無料公開日
十二日は日展の無料公開日であつた。私は午後半休を取り観に行つた。日展を観るのは始めてである。日本画、洋画、彫刻、工芸 美術、書の五部門がある。まづ日本画を観て愕然とした。私が予想した日本画は二百五の入選作品のうちで五つくらいしかない。 しかも日本画の展示場が終つて洋画に入つてもしばらく気がつかなかつた。
この原因は、出展者は制作法で日本画と洋画を分けるのに対し、私は題材で日本画と洋画を分ける。早速図書館で奥村土牛と 東山魁夷の画集を観たが、私の分け方で問題がないことを確信した。二人の画伯を選んだ理由はたまたま開架に二人の画集があつた。

日展は出展者と審査員が制作者の側に立ち過ぎてゐる。鑑賞者にとり大切なのはどのように作られたかではなく、鑑賞して心地よいか 否かである。日展は無料公開日に行つてよかつた。もし千二百円の入場料を払つたら損したといふ気分になつただらう。
日展会館の所蔵作品を観るとほとんどが立派な作品である。なぜ日展は洋画と変らない題材なのか不思議である。

十一月十五日(土)その二 院展のホームページを観て
比較のため日本美術院のホームページも観た。日本美術院は美術学校を追はれた岡倉天心が創立したもので、後に横山大観が再建し 現在に至る。院展の同人作品を順番に観て判つた。題材の比率が重要である。同人作品に洋画と同じ題材のものもあるが、比率が少ない。 日本画の伝統題材が多い中に少し洋画の題材が入るのはよいことである。丁度すいかに塩を掛けると余計に甘みを感じるようなものである。 だからといつて塩の山の中にすいかを切つたものが埋もれるようだと駄目である。同人作品は風景、動物、和服姿に混ざり少数の洋画 題材があるから、すべてが美しい。まづさう感じた。
次に受賞作品を観ると、総理大臣賞の「原生」。これは風景で日本画題材である。文部科学大臣賞の「佳き日」。これは洋画題材だが心地 よい。日本美術院賞(大観賞)の「理」。これは洋画でそれほど心地はよくないが専門家から観ると制作の創意など何か私には判らない 理由があるのだらう。日展のように二百五のうちの五つといふことはないから違和感はない。顔の表情が穏やかである。奨励賞の十一。 日本画題材が二、中間が三、洋画題材が七.微妙な数字である。これは日本画家の傾向ではなく日本そのものの反映である。 これを今後どうするか考へて行かう。

十一月十六日(日) 目的を有する活動は美しい
日本航空は一回倒産した。しかし稲盛氏が来て劇的に回復した。これについて何が変つたのかといふ質問に植木社長は
一言で答えるならば、社員の採算意識が高まったというのがわかりやすいと思いますが、私は何より社員の心が美しく なったことが一番変わったことだと感じています。それがすべてによい影響を及ぼしているのです

と答へた。目的を持つ活動は一番美しい。組織存続のため或いは正常な商ひの活動は二番目に美しい。このあと三番目、四番目と十番目 くらい続いた後に、官僚主義の活動は二番目に醜く、利己の活動は一番醜い。稲盛氏の経営は二番目に醜い(十一番目に美しい)旧日本 航空を二番目に美しくし、そのことが植木氏は一番目に美しくなつたと語つた。私は植木氏の発言に完全に賛成ではない。リストラの恐怖や 倒産による混乱での新役職への期待を上司が持つたことによる下への押し付けがあつた。これは私が日本航空に乗つたときに実際に体験 したし、ホームページでも取り上げた。しかしかつては下から二番目の醜さだつたものが上から何番目かになつた。日本画関係者はここを 学ばなくてはいけない。
今までの出展者は入選すること、有名な画家になること、それしかなかつた。これからは目的を持つことである。

十一月十七日(月) 日本画の目的
日本画の目的は日本の美しい文化を後世に伝へることにある。といつて昔の建築物や着物や伝統行事ばかりを描かなくてもよい。風景も 動植物も人物も皆、将来の伝統となる。またすべての現象にはばらつきがある。例へば30cmの花を描くと、29cmのものも31cmのものも 出てくる。同じように題材も西洋風の建物であつても駅に入つてくる列車であつても、それが伝統の題材の多いなかの一枚であれば美しい。 院展の同人作品を順番に観てさう確信した。

今の世は西洋近代文明が過剰に流入し多くの人が伝統文化にあこがれて日本画を観る。丁度京都や奈良を旅行する人は昔の建築物や 街並みや工芸品を観たいのであつて、京都駅の近代ビルを見たい訳ではないのと同じである。とはいへ昔の物に見飽きたところに近代風博物館 や動物園があつたとしたら、これもまた良いものである。(完)


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