六百十七、1.都労委元労働者委員水谷研次氏の講演、2.全労協全国一般平賀雄二郎委員長の講演

平成二十六甲午
九月二十八日(日) 濃厚で熱意溢れる講演
昨日は労働組合学習会に都労委元労働者委員水谷研次氏をお呼びした。私はここ二十年間にこれほど熱意に溢れ内容も濃厚な講演を 聴いたことがない。人間国宝、文化勲章に指定してもよいくらいである。水谷氏は昭和五十二年に江戸川地区労のオルグになり 五十九年には初の地域労組と言はれる江戸川ユニオンを結成、総評解散の影響をもろに受けて墨田地区労在職中に解散、連合 東京を経て都労委委員選任、労働情報執筆で現在に至る。
日本の労働運動が下り坂を転げ始めるそのときから現在に至る までを体験した貴重な証人である。私も総評が解体する少し前に労働運動に加はつたが既に大企業単組が堕落した五年後である。 水谷氏はその十年前、つまり堕落する現場を目の当たりにした。その貴重な講演を紹介したい。

十月四日(土) 日本の労働運動の問題点
日本の大企業の企業別ユニオンショップ労働組合はニセ労組である。私は昔からさう思つて来たが、水谷氏も似たことを言はれた(要旨)。
労働組合法は労働基準法や憲法より古い、GHQの指導で労働組合が作られたが育成しなかったため産別ではなく企業別になってしまった、 20年前は都労委への申し立ては1号か3号だったが今は2号がほとんど。地区労時代に労働者はがんばるものだと思ったが、連合はがん ばらない。連合には3つがない。ほとんどがユニオンショップで入った。これでまず団結権が変になる。団交もやったことがない。会社は運命 共同体だということで団交権もない。スト権は元々ない。労働組合は民主主義の学校だと言はれたが連合は違ふ。トップダウンや多数決は 駄目。現場の話を聞く。韓国の労組法は日本の真似をしたが今は違ふ。労働者のためにいろいろ改善。労組の要求で変へて行つた。 我々はどこかで労働運動を間違えてきた。まだがんばっている組合は多いので横のつながり、公務員組合とも連携することが大切。

十月四日(土)その二 その他の内容
それ以外に次のようなお話があつた(要旨)。
団体交渉について、使用者側には誠実交渉義務があり一方的な説明や資料を出さないのは2号違反の「団交拒否」とされる。カール・ツァイス 事件判決(東京地裁、平成元年)の「使用者は、自己の主張を相手側が理解し、納得することを目指して、誠意をもって団体交渉にあたらなければ ならず、労働組合の要求や主張に対する解答や自己の主張の根拠を具体的に説明したり、必要な資料を提示するなどし(中略)、合意達成の 可能性を模索する義務がある」。昔は10年間の組合つぶしがあつた場合でも公益委員や労働者委員が会社を説得し労使関係を安定させたが 今は使用者が劣化した。ILO1号条約は一日八時間、週四十時間を定めたが日本は批准しない。日本画さういふことをやるからフランスでも 過労死が出てきた。労働行政は本来は自治体がやらなくてはいけないが国が手放さない。国が逆に吸い上げてしまひ(相談業務を労政事務所 から地方労働局に、の意味だと思ふ)、地労委は自治体に回したので各県で差が大きい。労委の委員の報酬が月額から日額になつたので 活動が制限されるようになつた。

これ以外に派遣、組合つぶしと、労委、労働審判、裁判の話があり、充実した一時間半であつた。(完)


十月二十四日(金) 全国一般労働組合の役割と課題
十月度は「全国一般労働組合の役割と課題」と題して全国一般労働組合東京南部の平賀雄二郎氏のお話を伺つた。資料の冒頭には
「1.時代に抗する労働組合〜一般合同労組」に年収200万円以下の労働者が1000万人を超え、全労働者の37%が非正規労働者。増える 非正規、減る正規(今年6月で正規が2万人減り、非正規が36万人増えた)。紙切れ雇用で技能職能を蓄積できない。企業内運動に終始する 労働組合の現状と未組織労働者の不満と絶望、とある。

まつたく同感である。今や世の中が崩壊したのに労働組合がまつたく役に立つてゐない。

十月二十六日(日) 総評全国一般東京地本の南部支部と北部地域支部
東京地本は共産党系が有力で社会党系は南部と北部だけだつた。あと社会党右派系は東京一般として東京地本には加盟しなかつた。 南部と北部は名称の付け方が違ふから結成の経緯も異なるのだらうと思つてゐたがやはりさうだつた。次のような話があつた(要旨)
南部は大崎の共産党員が独自に作つた。北部は東京地本が地域支部で作つた。南部の分解は執行権を移譲し組合員は支部に加盟した。 北部は現場の執行委員会が力を持つた。分会が1〜1.5%の組合費。上納額は少ない。

総評が解散の後に東京地本は全労連全国一般に加盟したが南部は暫く東京地本に残つたと記憶してゐる。なるほどそのような経緯が あつたためだと思つた。このほか
糀谷は全金が多く、自転車で昼休みに集まり産業通りから海老取川まで赤旗が道路にずらつと並んだ。工場は最初、新横浜から西に移転した。 その後は韓国など海外に移つた。個人相談が増えた。職安で失業給付を受けるのが昔は大変だつた。労働生活相談センターの生活相談は五年で 外した。サラ金の相談が多かつた。最初は法定利息にさせたが人が殺到し沈静化したこともあり外した。

十月三十日(木) 東京南部の特長
(要旨)規約1条に「仲間を裏切らない」「ひとりの首切りも許さない」とある。そして「やることはみんなで決める」「困ったことはみなで平等に負担する」。
労働者は自分の仕事を守らう、となる。それでは会社の言ひなり、困つてゐる人を外から注入で職場を活性化。


職場の闘争の紹介で、食肉関連は公務員組合に150人行き、無三十人残つた、今はまた多数派。首都高は二十五時間労働が労基法改悪で でてきた。英語学校は大手電機がカセットレコーダを売るため英語学校を持つてゐた。ソニーランゲージスクールなど。アメリカは退役兵に奨学金を 与へて大卒、来日して戦争に反感。芝の総評会館の応接間に毛沢東やレーニンが飾つてあつて彼らは中に入らなかつたが労組を作つた。日本初の 外国人だけの労組。外国人は仕事が終れば出国が前提だから雇用保険に入れなかつた。今ビザを持つ外国人はほとんど一年契約、更新時によく トラブルになつた。
以上貴重なお話であつた。(完)


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