五百八十四、西洋音楽観賞記

平成二十六甲午
六月二十九日(日) モーツァルト、ベートーベン
先週の日曜に何年か振りに西洋音楽をインターネットで聴いた。まづモーツァルトのハレルヤのソプラノ を聴いた。次にベートーベンの交響曲第四番と第三番、ピアノ協奏曲皇帝を聴いた。
何年か前は何を聴いたかといふと、やはりモーツァルトのハレルヤと同じくモーツァルトの交響曲、 協奏曲を数曲聴いた。後者はモーツァルトのハレルヤはよく聴くのに(と言っても数年に一回だが)、他の 曲は聴かないからモーツァルトは他にどんな曲を作曲したか試しに聴いただけだつた。
その数年前はベートーベンの交響曲九番、序曲エグモントを聴いた。といふことで私は数年に一回西洋 音楽を聴くが、そのパターンがほとんど変はらない。

六月三十日(月) 西洋音楽ではなく天才の名曲を聴く
だから私の場合は西洋音楽を聴くのではなく天才の名曲を数年に一度聴くのだと思ふ。他の曲も聴くが 何か退屈だから聴かなくなる。その繰り返しである。
ベートーベンが天才でもすべての曲を聴く訳ではない。ピアノ協奏曲「皇帝」は聴くが、「月光」や「悲愴」 は聴かない。専門家に言はせればここが優れてゐるのだといふことがあらう。また交響曲の七番や四番 のように最初聴いたときはよく判らなかつたが何回も聴くうちに名曲が判るものもある。しかし一回聴いて あまり名曲に感じない曲は次は聴かない。或いは数年に一回だから間違へて再度聴く。これでよいの ではないか。音楽であつて音退屈ではないのだから。
交響曲三番はよく聴くが十五年くらい前に第一楽章と第三楽章だけ繰り返し聴いた。この二つだけ何回 も聴いてゐたら胃が痛くなつた。いくら名曲だからとこの二つだけ聴くと交感神経と副交感神経の バランスによくないのかも知れない。
第二楽章はともかく第四楽章は退屈ではないではないか。さういふ音楽専門家がゐるかも知れない。 しかし第四楽章はモーツァルトやシューベルトやその他ロマンス派の作曲家のレベルである。といふと 「お前はモーツァルトやシューベルトを何だと思つてゐるのだ」と言はれそうだが私は西洋音楽を聴くの ではない。非西洋地域でも聴くに値する音楽を聴くだけだ。その観点で聴けば第四楽章は別に退屈では ない。しかし第一楽章や第三楽章のやうに何回も続けて繰り返し聴くほどではない。

七月一日(火) アジアの音楽の特長
アジアの音楽の要諦は和音を用いないことにある。勿論和音は美しいが、美しくするためにどれだけ 犠牲を払ふかそれを考へるべきだ。
私は西洋音楽を西洋音楽として聴くことに反対しない。しかし多くの日本人は文部科学省にだまされて 西洋音楽が優れてその他は劣つてゐると勘違ひしてしまつた。アジアの音楽にはアジアの音楽の特長 がある。と云つても私が調べたのは、中国、韓国、タイ、ミャンマー、ベトナム、フィリピンだが、西洋音楽 との違ひは和音がない。そのため音程の細かい違ひは気にしない。この大らかな姿勢が音楽には必要 である。そのことに気が付かない東京芸大その他音楽大学の教授は引廻しの上、磔獄門にしてもよい。

七月二日(水) 七夕さま
昨日会社で仕事をしてゐたら「七夕さま」の曲がオルゴールの音色で聞えてきた。そのときは深く考へ なかつたが今日も聞えてきたので、会社の一つ下の階に保育園があることに気付いた。まさか下の階 の音が聞えるとは思はなかつた。今日は合唱したのかも知れない。
半音階(ファとシ)を抜いた音楽は心地がよい。今から十五年くらい前だらうか。まだ二人の子供は幼稚園 でそれほど学費が掛からなかつたから家計に余裕があつた。会社の帰りに童謡のCDやビデオを買つて 家で子供と聴いた。そのとき「浦島太郎」を聴いて改めてよい曲だとしみじみ思つた。但しリズムが変だ。 作曲者の付点八分音符と十六分音符といふ意図とは別に、国民の99%は八分音符二つで歌ふ。これが 正解である。ベルリンフィルではあるまいし楽譜どおりに演奏すればよいといふものではない。
「浦島太郎」のような美しい音楽を聴くべきなのにジャズだのロックだのと退廃した音楽を日本に広めては いけない。そのときさう決意した記憶が蘇つた。

七月三日(木) 西洋音楽教育の欠陥
昨日「ベルリンフィルではあるまいし」と書いたことに反発する人もゐよう。しかしベルリンフィルのどこが 優れるか判る人がどれほどゐるか。多くの人は音楽関係者が言ふ事をうのみにするだけだ。「浦島太郎」 の楽譜が付点八分と十六分なのにそれを八分二つで歌ふ日本人の感性こそベルリンフィルに優るもの である。勿論ベルリンフィルにはベルリンフィルのよい点がある。
日本の西洋音楽教育の結果、西洋音楽を愛好するならよい。実際は変な音楽がはやるやうになつた。 かつてはアメリカの退廃文化といふことで顰蹙を買つたが戦後の偏向教育のせいでこれをありがたがる 人が多くなつた。音楽は田植え歌など苦しい労働を楽しくしたり祭囃子など社会を維持する大切な役割を 果たしたが、今は社会を破壊するやうになつた。その対策を立てることが音楽大学の教授の役割なのに それを果たしてゐない。だから引廻しの上、磔獄門といふのも決して言ひすぎではない。(完)


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