五百七十六、杉並区立郷土博物館分館の企画展観賞記

平成二十六甲午
六月八日(日)過去の記憶のよみとき方-「個」の先にあるもの-
杉並区立郷土博物館分館で「過去の記憶のよみとき方-「個」の先にあるもの- 」といふ企画展がある。「個の先にあるもの」といふ表現に興味があり、本日見に行つた。実際は明治年間から昭和三十年代までの荻窪と青梅街道の風景を思ひ出しての絵画であり、表現への期待とまつたく異なつてはゐたが興味深く観賞することができた。
荻窪は駅周辺を含めて農村地帯であつた。そればかりか青梅街道の鍋屋横丁や新宿周辺まで農村地帯だつた。関東大震災で宅地が郊外に移転し荻窪辺りまでが住宅地になつた。しかし絵画はその前までを記憶に頼り後世に伝へようとする貴重な資料である。
一番印象に残つたのは神田市場まで農作物を大八車に載せ運ぶが、男が前で引き新宿または四谷までは上り坂のため女が後を押す。新宿または四谷で女たちは数人でそれぞれ鉄道で荻窪まで戻る。農作物を市場まで運ぶのは一家の一大作業であつた。

六月八日(日)その二個人商店
昭和三十年代までは豆腐屋、茶屋、染物屋など個人商店の全盛期だつた。絵画にも多数の商店が描かれてゐる。私の小学校低学年の記憶とも重なる部分がある。昭和三十年代後半の東京オリンピックと所得倍増計画。この二つが世の中を破壊した。しかし経済は成長を続けたからすべての国民はそれに騙された。これが正解であらう。その証拠に経済の成長が止まつたここ二十数年は世の中の破壊による弊害が極めて大きい。

六月九日(月)鉄道と路面電車
荻窪駅の周辺には野原以外何もない。これは七年前に廃止になつた鹿島鉄道のかつての駅前と同じで本来はこれが普通である。甲武鉄道の二本のポールで架線から集電する路面電車のような車両も描かれゐる。蒸気機関車もある。青梅街道を走る西武の路面電車も描かれてゐる。路面電車の説明には新宿から高円寺一丁目までの高円寺線と高円寺から荻窪までの荻窪線とあつたがこれは間違ひである。新宿から荻窪まで電車は直通し乗客も運転士、車掌も高円寺線、荻窪線といふ意識はまつたくなかつた。都電時代に架線の電柱に線名が書かれてゐたがこれは架線保守若しくは保線のためでありそれ以外に意味はない。学芸員は文献の表面だけを見てはいけない。学芸員資格は廃止したほうがよい。学芸員として採用された時点で特権化し向上意欲が止まつてしまふからである。といふか公務員は廃止したほうがよい。任用された時点で向上意欲が止まつてしまふからである。

六月九日(月)その二水路と溜め池
絵には荻窪先の線路の下を流れる水路をはじめ溜め池が描かれてゐる。そのうちの一つが天沼弁天池である。池の中央に島があり弁天が祀られてゐる。しかし弁天神社の改築のため池を売却し埋め立てたといふ記事があり、杉並区立郷土博物館分館はここに建つ。しかし観賞が終つた後に外を探しても神社がない。一番手前の道路に面した隅に小さな祠を見つけた。小さくはあつても立派に祀られてゐた。

六月九日(月)その三紙袋
今は買ひ物をするとビニール袋に入れてくれる。かつての包み紙と紙袋が展示されてゐた。このうち紙袋は懐かしかつた。私が小学生くらいのときは買い物をすると封筒のような紙袋に入れてくれて紙袋には店の名前と住所と電話番号が印刷ではなくゴム印で押してあつた。封筒は店の人が内職で作つたのかも知れない。
あと印象に残つたのは雨乞ひのため、月番二人を先頭に御岳神社だつたか青梅神社だつたかに参拝する行列の絵である。帰りは一階で杉並区の資料を二時間ほど見た。荻窪駅近くの旧DEC本社のビルの前まで行つて帰つた。荻窪までわざわざ行く価値はあつた。しかし「個の先にあるもの」の意味するものは最後まで判らなかつた。私自身は今の世は石油大量消費に支えられた砂上の楼閣だと感じた。買ひ物のビニール袋は石油から作られる。しかしそう感じる人は私以外はゐないだらう。(完)


メニューへ戻る 前へ 次へ