五百六十一(乙)、池田正隆氏著「ビルマ仏教」

平成二十六甲午
五月四日(日)「良心的な名著」
池田正隆氏の「ビルマ仏教」は良心的な名著である。真宗本願寺派の末寺に生まれ昭和三十二年にビルマ政府仏教会の招請により日本釈尊正法会派遣留学僧として三年間比丘となつた。帰国後は大谷中・高校の教諭を定年まで勤めた。
とかく日本の仏教関係者が留学しても上座部仏教を批判的に見たり、僧侶妻帯を正当化することに躍起になつたり、欧米の観点で仏教を論じがちだが、池田氏にはそのようなところが全くない。
池田氏の「ビルマ仏教」は前に一回読んだことがあるが、そのことを忘れて今回図書館で借りたところ、新鮮な気持ちで再度読むことができた。そこで今回はこの書籍を紹介することにしたい。

五月五日(月)「結集(けつじゅう)」
釈迦入滅後に結集が六回あつた。このうち二回は近代になつてからミャンマーで行はれた。
第一回は釈迦入滅の年に五百人の阿羅漢が結集した。第二回は入滅百年の後に十種の行為が戒律に違反するかどうかを審議し違反と決定した。この後、上座部と大衆部に分かれた。十種の中で(6)師僧が繰り返し行つたことは行つてよい、(8)酒の状態にまだならない濃度の薄い酒は飲んでよい、(10)金銭を受け取つてよい、の三つを認めたものが大乗仏教といへる。しかし大乗仏教も僧侶妻帯は認めてはいけない。認めれば自分の子に住持権を渡したくなるし生活費も掛かるようになる。
第三回は仏滅二三六年に行ひ、アソカ王のサンガへの多大な寄進に誘はれて紛れ込んだ破戒の徒六万人を追放し、経、律、論の三蔵が成立した。ギリシャや各地に伝道師を派遣しセイロン上座部はこのとき発生した。
第四回結集は北方仏教と南方仏教で伝承が異なり、南方では仏滅四百五十年にスリランカで行はれパーリ語の三蔵が初めて文字に写された。
第五回は一八七一年にビルマのマンダレーで行はれた。このとき下ビルマは既にイギリスの植民地になつてゐた。第六回は長い植民地時代の苦難を経て独立した六年後の一九五四年から二年間に亘り仏滅二千五百年を記念して開催された。

五月六日(火)「三蔵」
経蔵、律蔵、論蔵の三つを併せて三蔵経と呼び、漢訳とパーリ語のものがある。
パーリ語の経蔵は長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典、小部経典の五つがある。部派時代は各派が最初の四つまたは五つ全部を伝へ、その内容は大体同じだつた。
律蔵は止持戒、作持戒と後世に追加した付随からなる。止持戒は南伝パーリ律では比丘が二二七戒、比丘尼が三一一戒である。
論蔵は経に対する解説注釈である。律に対する解説注釈は律蔵の広報に追加されたが、経に対するものは論蔵になつた。部派時代に整つた。

五月十一日(日)「ミャンマーへの仏教伝来」
ミャンマーへの仏教はピュー族とモン族への伝来に始まる。五世紀には既に伝来してゐた。ビルマ族へは一〇五七年にタトンからモン族の上座部仏教がパガンへ導入された。シン・アラハン、パンタグーに次いで王師となつたウッタラージーヴァは多数の比丘を伴つてスリランカへ赴いた。同行したサパタは十年後に帰国し、シン・アラハン系を否定してスリランカ・マハーヴィハーラ派こそ正統としてシーハラ・サンガを構へた。この派は急速に発展し後に三つに分裂し、二百年に亘つてシン・アラハン系と対立した。
一二八七年に下ビルマは統一された。王国内で仏教は六派が分立し混乱した。一四七二年に王位についたダマーゼーディーは二十二名の比丘をスリランカに派遣し各派の授具をマハーヴィハーラに統一しようとした。これはサンガの浄化に成果をもたらしビルマの他地方をはじめシャム、カンボジア、セイロンからも修学者が相次いだ。
一八七一年ミンドン王により第五回結集が行はれた。このとき三派が独立し、従来のトゥダマー(宗教会議派)と共に現在に至る。

五月十一日(日)その二「植民地時代と独立運動」
イギリス政庁は一八五二年に僧院(寺小屋)学校を廃止させ、XX教のミッションスクールを奨励し、政府の公立学校も設立し始めた。ミッションスクールでは聖書を義務付ける一方で、公立学校は仏教的色彩の入り込むことを極度に警戒、無色透明で完全な信教の自由を保障するものでなければならないとした。
それまで沙弥式は十五、六歳だつた。これは基礎学習の完成を意味した。ところが学習は公立学校でなされるため、実施は六歳から十六歳の間の都合のよいときになつた。
ヤンゴン、モオラミャイン、シットゥエーでは洋風の豪華なベッドやビロードの三衣を用いる僧が出た。競馬に興じる在俗青年達と共にサンガも乱れてきた。真摯な青年層グループがスーラガンディといふ山河を結成し厳格な戒律遵守を標榜した。
一九〇六年にYMBAが結成され、後に独立運動に大きな役割を果たした。独立運動はラングーン大学の学生が中心だつたが、オウッタマ比丘とウィザーラ比丘が指導的役割を果たし、YMBAも一九一六年頃から民族解放、排英運動に踏み出した。
英国統治後最大の農民一揆が一九三〇年に発生し、指導者サヤーサンは比丘出身で独立達成は武装蜂起以外にないと断じて自身を転輪聖王であるとした。このころタキン党が結成され独立運動の担い手になるが、一九四〇年の党大会には数千人の僧が参加した。

五月十一日(日)その三「独立後」
一九四八年に独立したミャンマーは宗教省を設置し仏教の振興を図つた。宗教大臣はネーウィンで「仏教の宣布のために政府は、できる限りの援助をする」と声明した。そして第六回結集を迎へた。結集終了後に仏教を国教にしようといふ運動が高まり、少数民族の信教の自由を巡つて政情不安になつた。そしてネーウィンがクーデターを決行した。
革命評議会は「社会主義へのビルマの道」と題する声明を発表し、信教の自由を認め仏教を特別に援助する決定については停止した。一九八〇年仏教各派の合同会議を開催し僧籍記録手帳の交付を決定した。ティーライン(尼僧)にも手帳が交付され出家者として認められた。

五月十二日(月)「比丘と沙弥」
同時進行中のミャンマー経典学習会(その六)の歓談のときに、出家(一時出家を含む、といふかほとんどの人が一時出家になる)するのに比丘と沙弥のどちらにすべきかといふ話が出た。比丘で戒律を破るよりは沙弥に留めたほうがよいといふのがミャンマーで出家してそのまま一生出家の予定だつたのに還俗した人の意見だつた。といふことで出家について見てみよう。
ミャンマーでは男子仏教徒は全員一時出家し二十歳になり具足戒を授けてもらふ儀式「ヤハンカン」を経て比丘になる。僧院には比丘、沙弥のほかにカッピヤ(在家で手伝ふ人)、チャウンダー(僧院で生活し学校に通ふ少年)がゐる。僧院によつてはポートゥードー(白い衣で八戒を守り僧院で生活する少年や寺男)もゐる。
ミャンマーの人口はこの本の出版された一九九五年で三千六百万人。出家者は一時出家と還俗で流動的だが九三年で比丘が十四万四千人、沙弥が二十万八千人、尼が二万三千人である。

五月十四日(水)「僧院の生活」
沙弥は僧院に入るとセーキヤ・ダンマ(修学法)七五カ上を学び身につける。着衣、食事の仕方、話し方、歩き方にいたるまで詳しく教示されてゐる。暗記すべきパーリ語の 偈文はパッチャヴェッカナ(出家者反省文)で四種の観察とも呼ばれる。
十種の相は五戒に更に五つ加へたもので違反すると僧院から放逐される。十種の罰は十戒の後半と別の五つで違反すると掃除や草取りが課せられる。
帰国したミャンマー人の通訳が出家すると僧院はほとんど瞑想だと言つてゐたがそれは瞑想系僧院の話で、この書籍によると
午前五時起床・洗面午後一時 
 礼拝・瞑想  二時水浴
 作務(清掃など)  三時学習(予習)
  六時軽食(おかゆなど)  四時座禅・説法
  七時托鉢  五時散歩(三〇-五〇分)
  八時講義・学習  六時 
  九時   七時勤行(三〇分前後)
  十時   八時復習(経典の暗唱)
  十一時食事  九時就寝
  十二時休息(午睡)  


五月十六日(金)「在家信者の生活」
一般在家は家に仏壇を設けて敬礼し読経する。
(1)「罪過消滅のため身口意の三根を以つて教敬し誠心より合掌頂礼します」「その功徳によって四悪童や敵、災害などから脱して、涅槃を得ることができますように」とビルマ語にパーリ語のまじった祈願文。
(2)三帰依・五戎をパーリ語。「大徳、私は三帰依と共に五戎の法を乞います。抱いとくよ、願わくは戒を私にお授けください」
(3)帰敬偈をパーリ語。「かの世尊・応供・正等覚者に帰命いたします」
(4)三帰依文をパーリ語。「南無仏、南無法、南無僧伽」。このパーリ語の偈は世界の仏教徒共通
(5)五戎文をパーリ語
(6)パリッタ(護呪)をパーリ語。在家に親しまれるのは吉祥経、慈経、宝経など。在家の勤行は朝夕なされるが、特に仕事を終へて帰宅後に入念になされる。

五月十七日(土)「パリッタ、布薩日、雨安居」
パリッタは短い偈文を護身用に唱へることを釈尊が許したことに由来する。ミャンマーの仏教徒に日常読誦されるものは三十二経で、殆んどは小部クッダカ・ニカーヤに属する。ダンマパダや転法輪経も唱へられる。
第六結集のときに政府仏教会ブッダサーサナ・アポェはパリッタを普及させる運動を起こした。

比丘は満月と新月の布薩日の夕方四時頃にシーマに全員集合し半月の行動を反省し二二七か条の戒律の全文誦出を謹聴する。一年のうち雨季の三ヶ月は一定所に居住する。外泊はできずやむを得ない事情のときも七日を越えてはならない。
信徒は満月と新月とその中間の月四回の布薩日がある。早朝からパゴダや僧院近くのザヤ(休憩小屋)に集まり比丘僧にスンチュエ(斉食)を捧げる。その後、信者も食事を取るが午後になる。その後、比丘の前に並び八戒、九戒、十戒のいずれかを授けてもらふ。

五月十八日(日)「諸尊像、ナッ(精霊・神)」
在家信者の仏壇には、釈尊像の周りに弁才天、仏弟子シン・ティーワリ(尸婆羅尊者)、仏滅百年頃のシン・ウパゴゥなどの木彫像が祀られる。さらに四天王などインド伝来の神々も祀られる。僧院の仏壇脇、パゴダ境内の礼拝所、お堂にもよく安置される。パゴダにはウェィザー(超能力者)の像も祀られる。もともと歴史上の人物で超能力を持つ行者或いは僧侶だと信じられてゐる。彼らは弟子や信者を集めて独自のガイン(流派)を作つたが仏教徒を自称した。

私が池田正隆氏と意見が異なるのは精霊・神についての次の記述である。
仏教教理においては霊魂や精霊の実存を否定するにもかかわらず、仏教の世界観の中で、人間界の上方にヒンドゥー起源のデーヴァdeva(天神)などを含め、諸々の精霊や神々も描かれてきている。それは三界[欲界、色界、無色界]の中に摂せられ、「トンゼタボン・タンダヤー[三十一輪廻界]」といわれる輪廻の世界に重ねられる。

人間や動物が亡くなれば別のものに生まれ変はるが天界に生まれれば霊魂や精霊になる。三系列に分類され歴史上の人物だつたナッはアピン(外部)三十七ミン、四天王その他のインド伝来の天神や守護神がアトゥイン(内部)三十七ミン、パーリ仏典に出てくるインダ(因陀羅)、ソーマ(蘇摩)などの夜叉がボゥダバーダ(仏教)三十七ミンである。

五月十八日(日)その二「アメリカの人類学者を引用してはいけない」
この本は欧米かぶれのない良質の本だと冒頭で述べた。しかし惜しいことに最後の六ページが例外である。
アメリカの人類学者M・E・スパイロに『仏教と社会-偉大な伝統とそのビルマでの変遷(英語名略、以下同じ)』という大著がある。
その中でスパイロは(中略)救世論的システムを持つか、持たないかで二分した。つまり、 (1)「規範仏教」
(2)「非規範仏教」
に大別している。そして規範仏教を、
1「涅槃へ導く仏教」
2「業重視の仏教」
の二つとし、1こそ伝統をふまえた経典の説く仏教であり、2は輪廻の世界からの救済を目指して善業を積む直接的、世俗的な仏教だとする。


まづ輪廻の世界からの救済を目指すのは1であり、2は善業で幸福を得る信徒の立場である。スパイロが輪廻を因果論と解釈したのは西洋人だからやむを得ないが、それを仏教に縁の深い池田氏が引用してはいけない。
非規範仏教としては、
3「魔除け的仏教」
4「秘伝的仏教」
の二つをあげる。3はパリッタ(護呪経典)を用いるものであって、規範仏教の再解釈であり、経典や教義に基底があるとする。


魔除けや御利益が宗教と結びつくのは信者を宗教に誘導するための人類の長い歴史に亘る知恵であり、後には僧侶の堕落した者による金欲や怠惰の理由もある。機械的に経典と比較して論じても無意味である。
4は、千年至福待望仏教であり、ナッ信仰を含む奥義的仏教であって(中略)4の秘伝的仏教の中に、
「終末論的仏教」
「千年王国待望仏教」
の二つの型があるとする。


XX教の最後の審判の感覚で仏教を見るからこういふ駄論が出てくる。だから
終末論的仏教は(中略)神通力を得て不死身になり、二千五百年ないし八万年寿命を延長しようとするもので、次の仏教に結びつく。すなわち、千年王国待望仏教は、セッチャーミン(転輪青王)、ないしミンラウン(未来王)信仰を指すものであり、弥勒仏下生の世まで生き延びることを臨むのである。

と言つてみたところで無意味である。仏教徒は来世によいところに生まれたいとは思つても永久に行きたいとは思はないからである。こんなくだらぬ学説を引用してはいけない。そればかりか池田氏まで
長い歴史の中で仏教が果たした役割は、社会の進歩という観点からみれば大したものではなかったかもしれない。

と述べる。社会の進歩とは何ぞ。世の中は進歩はしない。それに付随して堕落も起きるからだ。今の世が歓楽に溢れてゐるのは化石燃料を消費するからだ。二千五百年の長い視点で世の中を見ることができることこそ、仏教最大の役割である。(完)


上座部仏教(16)
上座部仏教(18)

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