五百四十八(乙)、神田から上野へ散策記


平成二十六甲午
三月二十一日(金)「科学教材社」
本日は秋分の日で祝日である。昨日の散歩で科学教材社を思ひ出したので、本日行つてみた。消費税が増税したら必要のない鉄道の乗車は止めようと思ふ。その前に散策しようといふ仕儀である。インターネツトで調べた番地のビルには確かに科学教材社が入居してゐる。ここの一階が店だつたのかと最初思つたが、どうも昔の記憶とは異なる。ビルは道路の東側だが私の記憶では西側だつた。しかも店の面積がこのビルだと狭い。
ともかく科学教材社の存在を確認したので次の目的地秋葉原に向かつた。その前に淡路町の吉野家で牛丼を食べる予定で、それは50円割引券を使ふためである。しかし11時で昼食には早い。そこで道路脇の案内図に載つてゐる須田町老舗街を観ることにした。前にも一回来た記憶が或る。
店の数はそれほど多くはないが料理店は老舗の建物を売り物に稼いでゐるやうだ。よいことである。二階の壁が銅板ぶきの二軒隣り合はせの商店を見つけた。これはなつかしい。昭和六十年辺りまではこのような商店が都内に多数あつた。一階は店で二階の二間が住居である。今から考へるとずいぶん小さな住居だが昔はこれが普通だつた。
その後に牛丼屋に行つた。11時20分で早いせいもあるが、西新宿と違つて店の雰囲気は普通だし牛肉も脂身の多い部分ではなかつた。牛肉の厚さは防府には負けてゐた。これは偶然ではなく店の周囲の競合相手との兼ね合ひであらう。西新宿の異常さが印象に残つた。

三月二十二日(土)「神田明神」
秋葉原のラヂオセンターを歩きアトレといふ商店ビルに入つただけで上野方向へ向かつた。アトレは昔の秋葉原デパートがあつた場所でここの一階には屋内屋台みたいなものがあつて好きな雰囲気だつたが、今は値段もそこそこの店ばかりになつてしまつた。
道路の案内図で神田明神を見つけ寄つた。今まで行つた記憶がない。境内は多数の末社があり盛大である。魚河岸や職人などの講中が寄進した末社が多数あり宗教性を感じた。建物があるだけで宗教性を感じない神社が多いなかで昔からの講中が宗教性を保つのだと思ふ。
入館料300円を払つて資料館に寄つた。他に入場者はゐなかつた。ここの資料は見応へがある。参拝者は向学のためぜひ資料館にも入場してほしい。
神田明神、日吉山王、根津権現を江戸三大祭りと呼ぶことがあり、根津権現の代はりに富岡八幡が入ることもある。規模と水掛けの風物から富岡八幡のほうが有名だが神田明神の年表を見て理由が判つた。それまで神田明神、日吉山王が毎年交互に行つた天下祭に根津権現を加へて三社で三年毎、つまり一社は十二年に一回にした。しかし五年後に旧例に戻したから根津権現は一回だけ天下祭に参加した。そのため三大祭りに入つたり入らなかつたりするのだつた。NHKの十九年前の大河ドラマ「八代将軍吉宗」で、幕府の経費節減のため根津権現の祭は民営化すると吉宗が発言した詳細が今やつと判つた。

三月二十三日(日)「裏通り、山田照明」
神田明神を退出ののち明神下通りを歩き、更に中央通りの一本西側の道を歩いた。道路の両側にパソコンショップが並びなかなか感じのよい道路である。秋葉原にこんな場所があつたのだと初めて知つた。
末広町といへば山田照明である。五十代の人はテレビのCMで山田照明はよく知つてゐるし末広町にデパートのような大きな売り場があつた。しかし今回売り場のないことに気付いた。帰宅後に調べると会社がなくなつた訳ではなく裏側に移転したのだつた。プラザ合意の影響がこんなところにも現れてゐる。

三月二十三日(日)その二「上野松坂屋」
今回の散策の目的は科学教材社と上野松坂屋、そのついでに秋葉原の電気街に寄らうといふものである。だから上野松坂屋に向かつた。かつては歩行者天国が上野から銀座まで続き私が20代のころはよく上野から銀座まで歩いたものだつた。上野松坂屋の南館は閉店した後だつた。新たに本館が改装して開店したらしい。南館地下の食品売り場が本館一階の半分に侵出してゐた。
惜しいことに南館の屋上遊園が廃止された。かつては本館と新館(現、南館)の両方に屋上遊園があつた。後に屋上の連絡橋が作られ、しかし本館は屋上に増築して売り場に化けてしまつた。その後、数十年を経過し今回全廃されてしまつた。

三月二十三日(日)その三「アメ横、上野公園、谷中、根津権現」
松坂屋を出て上中(上野中通り)を歩いた。途中でアメ横と合流する。合流地点が昨年はNHKテレビ「あまちゃん」で有名になつた。今回も「あまちゃんロケ地」といふ表示が2つにあつて写真を撮る人が2人ゐた。去年の放送中も今年の正月も今回も撮影者の数は変らない。それだけ人気が続いてゐる。
上野駅に着いた後は上野公園に入つた。かつて入口のところにイラン料理店が多数出てイラン人のたまり場になつた。東京都が禁止したため消滅した。公園内でペルーの音楽をやるグループがあつたからいまでもやつてゐるのか見るのが今回の新たな目的だつたがこれも無くなつた。代りに上野大仏といふものを見つけた。前にも一回観た記憶があるが完全に忘却してゐた。東京都による花見客の準備は万端で梅だけ桜だか数本花が咲いてゐた。
その後、言問通りは自動車排気ガスを吸ふから一本先の路地に入つた。あとは狭い急坂を下つて観音通りに出るか、広くて車のほとんど通らないあかじ坂を下るかだから後者を選んだ。といふことでまた「あまちゃん」の谷中寮の前を通ることになつた。ここはアメ横と違ひ昨年の放送中のときから観光客はゐない。
あかじ坂はアキが自転車で下るところと、GMTを退団するメンバーが去るところ、アメ横女学園のセンターが降格して入寮する場面と三回放送された。この坂を下りて根津権現に寄りこの日の旅行を終了した。

三月二十四日(月)「神仏分離、神社名変更、神社の格付け」
神田明神は今は正式名が神田神社である。根津権現も今は正式名が根津神社である。私はあかじ坂を下りて2区画目(路地も加へる4区画目)に住んでゐたからよく判るが、地元で根津神社なんて言ふ人は皆無である。「権現様」あるいは「根津権現」と呼称した。神田明神も同じであらう。
神田明神で驚いたのは名称以上に、二番目に祭られてゐた神様の平将門が明治維新の後は削除されたことだ。平将門は昭和六十年頃に復活した。根津権現も江戸時代にはあつた寺がなくなつたばかりか境内の半分が消失した。つまり現存する池と左右対象となるもう一つの池があつた。今の日本医大の敷地である。最近は大学院の校舎になつたが十年くらい前までは看護師の宿舎だつた。
明治政府といふのは本当に悪質な連中である。先人たちの長期に亘る神仏習合の知恵を破壊した。その後は寄生地主や、成り上がり財閥や、軍閥や、政治家と称する自分の生活のためだけのシロアリ政治屋どもや、偏向マスコミのやりたい放題となり敗戦を迎へた。今とほとんど変らない。寄生地主と軍閥がゐない分、シロアリと偏向マスコミがより一層ひどくなつた。(完)



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