五百四十八(甲)、昼休みの散歩を復活


平成二十六甲午
三月五日(水)「昨日から復活」
昨日から昼休みの散歩を復活させた。かつては散歩をしながら翌日昼食を食べる場所を見つけることをよく行つた。勤務場所が池袋だつたときにその方法で大勝軒といふラーメン屋を見つけた。今から十五年くらい前だらうか。昼休みが四十五分に短縮された。そのため昼休みの散歩が小規模になつた。
子供が小学校、中学校と進学するに連れて塾などお金も掛かるようになつた。外食から弁当に変へたこともありおそらくこの頃から散歩をしなくなつた。
昨年辺りに食後の血糖値の急上昇が健康に悪いといふ記事を読んだ。それ以降、弁当を止めたり週二日復活させたりご飯の他におかずも持つて行くようにしたり工夫するようになつた。そして昨日から散歩を復活させた。
散歩の復活は血糖値だけではない。肩の凝りがひどいのでその対策でもある。

三月六日(木)「雨ニ負ケズ」
昨日は雨だつた。しかし二日目なので傘をさして会社の廻りを散歩をした。12時30分から45分までの15分間だつた。

三月七日(金)「風の強い日」
昨日は風が強かつたが12時18分から27分間歩いた。午後はやはり肩凝りがひどかつた。歩行の最後に十貫坂上を歩いた。かつてはここに仏具屋があつた。私の勤務する会社がこの近くに移転した10年前は既になかつたが昭和三十年代には創価学会の機関紙によくこの仏具屋が広告を出した。

三月十五日(土)「東圓寺の飛境内」
七日は十貫坂を下つた。右に新しい木造のお堂がある。元禄5年(1692)と正徳2年(1712)の庚申塔、享保2年(1717)の地蔵塔、建立不明の庚申塔1基と地蔵塔2基の計6基がある。ここでお賽銭を入れてお参りした。更に直進すると創価学会が戦前から昭和二十年代まで所属した中野教会が道路を入つたところにある。だから池田大作氏のお守り本尊には「中野教会信徒池田大作」と書かれてゐる。三年ほど前までは道路の電柱の看板に寺号とともに旧歓喜寮と書かれてゐた。歓喜寮とは中野教会のことで明治維新の後、政府は新たに寺を作ることを許可せずしかし西洋の圧力で教会の新設は認めた。だから各宗派は教会を設立した。しかし今回は旧歓喜寮といふ文字が消えてゐた。
更に進むと真言宗東圓寺の飛境内の不動様がある。ここでもお賽銭を入れてお参りをした。道路の向ひには真新しい社が三つありここもお参りした。この辺りは立正佼成会の本部や歴史的施設が点在し、救世軍の建物も多い。堀の内の妙法寺も併せて日本でも有数の宗教スポットである。
帰りは一部区間を走り昼休み終了の二分前には席に着いた。

三月十八日(火)「かつての水掛け祭の会場」
会社が十一年前に移転したとき近くにタイ料理店があつた。一回経営者が代つたが今でも営業してゐる。昼食にときどき行かうと思つたが十一年間で二回しか行かず、あと500円の弁当を一回買つた。中華料理店の弁当は350円だからどうしてもそつちに行つてしまふ。そのタイ料理の店が二週間ほど前から閉店してゐる。昨日はそこの前を歩き五柱五成神社といふ民間の神社の前を過ぎて慈眼寺といふ真言宗の寺に行つた。
五柱五成神社は旗がたくさん奉納されて活性された神社である。一般の神社が地域割りで停滞する中で此のやうな活性化した神社は貴重である。
慈眼寺にはタイの寺院に似た鐘つき堂と仏舎利塔がある。タイ風なのでその前では上座部仏教式に「ブッダンサラナン・・・」と三唱して左を見て驚いた。慈眼寺の住職とタイ寺院の院長の名前とともに「ブッダンサラナン・・・」が書かれてゐた。慈眼寺にタイ式の建物があるのは数年前に聞きに行つたところ住職が以前タイに留学したさうだ。以前はタイの水掛け祭を境内で行つたことがインターネットで検索できる。タイ料理店があるのもその名残りかも知れない。

三月十九日(水)「堀の内妙法寺」
昨日は弁当を家から持つて行つたので十二時十五分に会社を出発できた。堀の内妙法寺商店街入口まで行き、帰りは一部を走つて昼休みが終る2分前には会社に戻つた。本当は商店街を抜けて山門まで行きたかつたがこれは時計を見て無理である。往復2800m、所要時間28分。平均時速6Kmであつた。
鍋屋横丁を直進すると先日紹介した宗教スポットに至る。鍋屋横丁の途中を右折すると江戸時代からの妙法寺参拝道である。かつて会社が移転し出張で本社に行くと鍋屋横丁の入口に妙法寺参道の石碑があつた。私の勤務する事業所が統合されて転勤したときはマンションの工事で妙法寺商店街入口に移転した。鍋屋横丁の途中の右折点にも石碑があり、昨年僧侶と信徒代表数名が参列してここで法要をしてゐた。
右折後の道路は商店がところどころに散在する。銭湯も三軒ある。散歩するにはなかなか感じのよい道路である。

三月二十日(木)「吉野家」
昨日は午後から目黒の雅叙園で日経BP主催のコンピュータセキュリティの講演会があり私も聴きに行つた。だから昼食は途中の西新宿の吉野家で済ませた。吉野家に行つた理由は副菜の五十円割引券である。防府の吉野家で食べたときにもらつた。
防府の吉野家と西新宿の吉野家はまつたく異なる。防府では三回食べて三回とも牛肉は美味しかつた。西新宿は脂身が多く不味い。客層も異なる。防府では早朝に行つたから皆が私服である。西新宿は昼食時だからほとんど背広である。私の右隣の客は紅しょうがの容器を持つてごつそりと自分の丼に入れた。紅しょうがの容器には掴む器具が付いてゐるから容器を斜めにしてごつそり入れる人は始めて見た。左隣は注文の時につゆだくと言つた。つゆだくは値段が変らないがつゆが多い。ああいふ注文をするのはいじきたない人間である。左右はどちらも背広を着るサラリーマンであつた。
西新宿高層街の異様な雰囲気が牛丼屋に持ち込まれた。いやそればかりではない。東京といふ異様な雰囲気が持ち込まれた。地方から東京に来た人は高層街を見て日本ではないみたいですねと驚く。これが普通の感覚である。

三月二十一日(金)「科学教材社の兄弟会社」
昨日は雨だつたが、中野坂上の方角に歩いた。私が小学生のころ科学教材社といふ店が神田錦町にありよく訪問した。あるとき店のガラス張りの作業場に入れてくれて私の作つたラヂオを見て、スピーカと並列に抵抗を入れるとよいと半田で追加してくれたことがある。配線図にはなかつたがかうすると雑音が少ないらしい。
今から十年くらい前だらうか。たまたま近くに出張で行き、科学教材社に寄つて昔の話をすると「子供の科学」だつたかの雑誌を頂いた。同社の兄弟会社の誠文堂新光社の配送センターが此の辺りに載つてゐたので向つたが中野坂上の手前で時間の都合で引き返した。

三月二十七日(木)「サンダルから靴に」
月曜は再度中野坂上に行つた。先週は手前で引き返したので今回はきちんと中野坂上まで行つた。途中の小学校で卒業式が終つたところに出会つた。「仰げば尊し」の曲が流れてゐた。
火曜は大相撲の貴乃花部屋の前の路地を曲がつて戻つた。この日から散歩の時はサンダルではなく靴にした。サンダルは三ヶ月しか履いてゐないのに底が半分くらい磨り減つた。
昨日は青梅街道の向ひ側を歩いた。天祖神社といふ小さな神社があつた。予備校みたいな建物もありかつては西部邁氏が教授を勤める千葉の私立大学の東京本部だつた。西部氏の発行する雑誌が厖大な赤字で廃刊になる前に私も購読してみようとここに購読申し込みに行つたところ、ここではお金は扱つてゐないと云ふことで郵便振替用紙をもらつたことがあつた。東京本部は七年ほど前に都心に移転したやうだ。この私立大学の名前を書かないのは英語、英語と騒ぐ広告を見たことがあるためで、今から三十年前に英語、英語と騒いだなら先見の明がある。ここ十五年位は英語熱が過熱し過ぎたから意味がない。逆に英語帝国主義の様相を示してきた。西部氏の思想は日本文化と断絶し近代西洋思想からの保守といふ弱点がある。西部氏の弟子と称される佐伯啓思氏と西田昌司氏は日本文化を起点として思想を展開するから共感できる点は多い。(完)


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