五百十三(甲)、秋葉原訪問記
平成25年
十二月十二日(木)「ラジオストア」
先日夜、中小労組政策ネットワークの年次総会が秋葉原であつた。開始時刻に20分ほど余裕があつたので、十一月三十日に閉店したラジオストアに寄つた。私は閉店のニュースが流れるまでラジオストアを知らなかつた。
秋葉原の電気街は大店舗が立ち並ぶ。しかしそれ以外にラジオセンター、ラジオデパート、ラジオ会館がある。各マスコミが「ラジオストア閉店」を大々的に報道した。場所は総武線各駅停車のガード下ださうだ。中央通りを探したがない。裏側に回り閉店部分を見つけた。
何とラジオセンターの一番南側の一列がラジオストアだつた。ラジオセンターは小さなパーツ屋さんが店を並べる。北側の通路は両側が店で、南側の通路は片側がラジオセンター、もう一つの片側がラジオストアで、今まで多くの人が二つの通路をラジオセンターと称してゐた。
十二月十三日(金)「ラジオデパート」
中央通りの向ふ側のラジオデパートにも寄つた。中はラジオセンターと同じパーツ屋さんもあれば中古パソコンなどもう少し大きなものを扱ふ店もある。四階から地下一階までを一通り見た。何々無線といふ店も幾つかあつて時代を感じさせる。昭和三十年前半まではラジオの時代だつた。無線とはラジオのことである。
十二月十四日(土)「ラジオ会館」
ラジオ会館は二年前に建て替へのため解体された。その数年前に懐かしさを感じながら訪問したことがある。日電のPCシリーズのショールームBit-INNと富士通のFMシリーズのショールームマイコンスカイラブがあつた。マイコンスカイラブは私がかつて勤務した富士通マイコンシステムズが運営した。Bit-INNは年末年始も無休で開店するから富士通も対抗上開店する。マイコンスカイラブに所属する人だけ年末年始に勤務するのは大変だから交代で出勤してもらふかも知れないと部長に言はれたが、結局は出勤しなくて済んだ。
翌年マイコン(今のパソコン)を半導体事業本部(この時は電子デバイス事業本部)から電算部門に移すといふ話が出て、半分以上の人が電算部門に作られた子会社に転属した。その後DOS/V機といふものが出て価格が暴落した。そして日電も富士通もショールームは閉店した。
十二月十四日(土)その二「おニャン子クラブ」
この当時FMシリーズではOS-9といふOSも動かすことができた。モトローラの8ビットMPUの6809上でUNIXに近いものが動く。しかもマルチウィンドウである。更にリアルタイムOSである。これはすごい製品だつた。しかしBASIC全盛時代だからマニア以外はあまり買はず富士通の技術者も電算部門に移つたとき一人だけになつた。その人は私より十歳くらい若く人間を無差別に千人集めたらその中で最も暗い性格と認定されるような技術者だつた。あまちゃんに出て来た「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華も無いパッとしない」存在である。「Oh!FM」といふ日本ソフトバンクが出版する雑誌にも似たような記事をスッパ抜かれたことがある。「Oh!FM」は富士通のFMシリーズに特化した雑誌で、「Oh!PC」といふ日電のPCシリーズ向け、「Oh!MZ」といふシャープ向けもあつた。この当時PCシリーズのシェアは圧倒的で、富士通は一周遅れの二位とよく言はれた。だから「Oh!FM」誌を維持するため富士通はかなり購入してわれわれのところまで毎月一冊づつ配布された。
この「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華も無いパッとしない」技術者が何と驚いたことに「おニャン子クラブ」のファンクラブ会員だつた。これは私が今まで経験した面白い話で五本の指に入る。
十二月十五日(日)「ラジオ、テレビ、石油ストーブ、マイコン、全自洗、二扉冷蔵庫、パソコン」
私が小学生のころ秋葉原はラジオからテレビに移る瞬間だつた。その後テレビはカラーになつたが、一方で電気こたつや石油ストーブが家電街の主力製品だつた。電気街でなぜ石油ストーブを売るのか私には不思議だつた。当時の石油ストーブは赤熱する金網式で電気は一切使はなかつたからだ。
その後、当時はマイコンと呼ばれたパソコンが出現しプラザ合意により電気こたつと石油ストーブはほとんど消滅した。当時は贅沢品だつた全自動洗濯機と二扉冷蔵庫が出て来た。プラザ合意により自家用車が普及し電気製品の箱を持ち家に帰る人の姿も激減した。
十二月十九日(木)「三つの子会社」
私の富士通グループ時代は四年だけだがその理由はマイコンが半導体から電算部門に移つてしまつたことである。私は環境技術者だが会社にあつたFM8で統計処理をするため秋葉原のマイコンスカイラブといふ富士通のショールームに電話で質問したことがきつかけである。
電算部門に移管したことにより、開発は電算機事業本部オフィス機器事業部、技術のまとめはシステム本部パソコンシステム統括部、サポートとショールームは営業推進本部パソコン販売推進部に分かれた。富士通は一つの会社だからよいが子会社は会社が三つに分割されたからたまらない。しかも「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華も無いパッとしない」オフィス機器事業部の子会社に回されてしまつた。こうなるとあとすべきことは「おニャン子クラブ」のファンクラブ会員になることだけである。
富士通には士農工商があると冗談を言ふことがあり、事業部が一番偉いのである。そもそも他の部署は間接部門である。私は子会社所属だが富士通で仕事をした。それなのに私よりパソコンシステム統括部の連中のほうがはるかに詳しい。これは許し難い。事業部の上層部はよいが下つ端は単なるプログラマである。これでは駄目だといふ思ひもあつた。
十二月二十一日(土)「NEC秋葉原ショールーム勤務を辞退」
あともう一つ退職の理由がある。丁度総評が解体される時期だつた。この当時労働四団体は公務員(総評)、大企業(同盟、中立労連、新産別)が多数を占めてしまつた。しかも隠しベースアップが新聞を賑はしてゐた。こんな状態で四団体を統合したらだうなるか。予想したことが先の消費税増税騒ぎで現れた。
半導体時代は労組はなかつた。電算部門に移つたら富士通労組にユニオンショップで強制加盟になつた。連合(当時は全民労連)の会長は電機労連の蓼科だし電機労連の委員長は富士通の藁科である。だから富士通労組の大会で一人だけ反対派になつた。
労組内で反対すると会社の人事部が介入してくる。そして退職勧奨さわぎになつた。私は秋葉原のNECのショールームを運営するNECの代理店に転職が決まりその仕事はやりつかつたのだが、私が相談に行つた総評全国一般東京地本南部支部のS書記長が労働争議にするから辞退しろ、就職先なんか幾らでもあるといふので泣く泣く辞退した。Sさんは数年前の組合分裂騒ぎのときも書記長でその後、向う側の委員長を務めた。ずいぶん長い付き合ひである。長い付き合ひと言へば労組内で反対派になると会社の人事が介入する話を南部支部のHさんにしたところ、大企業労組は話には聞いてゐたがそんなにひどいのかと驚いてゐた。中小労組は大企業労組のことが判らないこともある。Hさんは南部支部の委員長でうちの組合が分裂後は連合を自然脱退し南部と交流を深めてゐるのでこれも長い付き合ひである。
十二月二十一日(土)その二「三つの選択肢」
あのとき三つの選択肢があつた。(1)富士通でおとなしくする。(2)NECのBit-INNで仕事をする。しかし私は(3)池袋のコンピュータ専門学校の教師になつた。
もしNECのショールームで仕事をしたらだうなつただらうか。その後のDOS/V機の出現でNECはシェアを激減させDOS/V機自身も価格が暴落した。ショールームが維持できないことはラジオ会館を見れば明らかである。そしてサトームセンなど倒産や廃業も相次いだ。富士通に残ることはあり得ない。電算部門のああいふ大組織は好きではない。池袋のコンピュータ専門学校はその後脱税騒ぎや倒産騒ぎが起こりいずれも新聞で大きく報道された。私は倒産の直前に転職し今の会社で海外ソフトの輸入に従事し海外長期滞在も何度か経験し、多くの日本人が抜け出せないでゐるアメリカへの劣等感を抜け出すことができた。国際人になるとはアメリカへの劣等感を抜け出すことである。だから今から思へば(3)が一番よい選択だつた。
専門学校時代に各専労協のIさんにお世話になつた。Iさんの千代田学園は東京でも有数の専門学校だつたがその後倒産し大変な労働争議が今でも続いてゐる。うちの組合が分裂後はA副委員長の関係で各専労協が会議や印刷物作業をうちの組合の事務所でするなど交流が深まつた。これも長い付き合ひである。
十二月二十二日(日)「アイドルグループ」
今では秋葉原と聞いてAKBを連想する人が多い。私は二年ほど前まではAKBを知らなかつた。子供の通学する高校の音楽教師がAKBに言及し初めてさういふグループがあることを知つた。ここで思ひ出すのは私が小学生の時の音楽教師である。「僕は泣いちっち」はよい曲だと言つた。音楽の教師だからクラシツクが好きな訳ではないのだと判る。
AKBのことは音楽グループだと知つただけで曲を聴いたことも出演を見たこともなかつた。たまたまNHK「あまちゃん」でAKBのパロディのアメ横女学園とGMTが登場したためAKBとはああいふグループなのかと判つた。
「あまちゃん」の太巻は秋元総合プロデューサのパロディだが、秋元氏は古くはおニャン子クラブを作つたことを知り、初めておニャン子クラブはああいふグループなのかと判つた(完)
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