四百三十七、組合の飲み会での憲法改正の話(フランクフルト学派)


平成25年
六月二十二日(土)「執行委員会後の飲み会にて」
執行委員会の後は、かつては皆で千円づつ出し合ひ近くのスーパーに買出しに行き事務所内で飲食した。ここ半年ほど近くの中国人の経営する小さな中華料理店で飲食するやうになつた。ここだと二千円で収まる。ところが昨日は店が満員なので池袋駅の近くの店に入つた。ここだと四千円掛かる。貸切りの宴会でも四千円くらいだから高い。前に或る年配の組合員が店を出たあと「ここは宴会コースと同じくらいするから高いね」といふので「さうですね。本当に高いですね」と同意したこともある。

昨日の飲み会は四千円に見合ふ話の内容であつた。それは憲法改正に賛成の話である。憲法を改正すべき最大の理由はあの劣悪な文章である。なんであんなゴミ文章を保たなくてはいけないのか。私はあまり発言しなかつたが、かつての総評の左派系単産で活動し、太田薫から「都知事に当選したら秘書をやつてもらふ」といはれた人などの意見である。考へてみれば私も若いつもりでゐるが年長組になつた。全民労協が結成され総評が解体に向ふとき、太田薫、岩井章、市川誠の総評三顧問が主催する労研センターの全国大会に百名ほど参加し、私もその一人だつた。
もちろん戦争には反対である。自衛隊が米軍の下請けになることにも反対である。だからそれ以外の部分を改正すべきだ。
このようなことを言へるのはうちの組合くらいだといふ意見もあつた。他所の組合では進歩的なことをいはなくてはいけない雰囲気がある。しかし労働組合の目的は集団で労働者の生活をよくすることだ。だから社会主義を目指すならそれは集団主義だから賛成である。西洋的な自由主義を言ふならそれは個人主義だから反対である。

六月二十三日(日)「過程の重用さ」
今回は出なかつたが前に、制定の過程も重要だといふ話が出た。これも賛成である。私が小学二年生のときに「エイトマン」といふテレビ漫画があり特に主題歌がよかつた。登場人物やあらすじはまつたく記憶にないが主題歌だけは今でも憶へてゐる。昭和三八年から三九年の放送だから太田薫が総評議長のときである。ところが主題歌の歌手が昭和51年に殺人事件を起こした。そのためテレビの再放送は主題歌無しで放送し、後には別の歌手に吹き替へた。歌と事件は何の関係もないが、それでは世間は通らない。憲法も同じである。マツカーサといふ人類史上最悪の犯罪を犯した男の押し付けた憲法をなぜありがたがるのか。
地球が滅びた後、新たに誕生する高等知能を持つた生物が、人類最大の犯罪は原爆だと判断するだらう。或いは地球温暖化を最大の犯罪、原爆は二番目の犯罪とするかも知れない。
経済的にいふなら生産物がよければ合格ではない。生産過程も重用である。

六月二十四日(月)「フランクフルト学派」
マルクスを研究する学者にフランクフルト学派があり、戦前はナチスに弾圧されてアメリカに亡命し、戦後はフランクフルトに戻つた。日本の憲法はフランクフルト学派の影響を受けたといふ話も出た。といふことで早速、フランクフルト学派を調べることにした。
まづ判つたことは旧西ドイツではかなり学生運動が起きた。フランクフルト学派の教授は最初は学生運動を先導する立場だが後に弾圧する側に回る。二番目に判つたことはフランクフルト学派は唯物論の克服ができてゐない。

六月二十五日(火)「原爆」
原爆死没者慰霊碑の「過ちは繰り返しません」は主語が抜けてゐる。過ちを犯したのは米軍だ。かういふ話は労組に限らず政治に関心のある人が話せばすぐに出てくる。ところが冷戦終結後は偏向マスコミのせいで原爆まで日本が悪いことになつてしまふ。
今でも労組の分会レベル、支部レベルの人たちが飲み会で雑談をすれば原爆は米軍が悪いといふ話になるはずだ。ところが企業別レベルや単産、労働団体(連合など)になるとさういふ話は出ない。上に行くほど生の声はなくなる。
一つにはシロアリ民主党みたいに上昇志向が強くなるから建前ばかりになる。二つにはこれらの団体は目的がない。単産や労働団体の目的は総資本対総労働だ。ところが企業別組合の上部だからさういふ意識がない。つまり単産や労働団体は目的がなく単なる圧力団体である。

六月二十七日(木)「田中英道氏と私の相違点」
先週の日曜にフランクフルト学派のアドルノとハーバーマスの書籍を何冊か読んだ。そのときの感想は学者のための学説といふ印象を受けた。労働者と農民の姿がまつたくない。悪く言へば学者の飯の種あるいは虚栄心である。
インターネツトでフランクフルト学派を調べると田中英道氏が文化破壊として批判してゐた。私は資本主義と共産主義の両方の文化破壊に反対だから田中氏とはほとんど共通である。さう期待して田中英道ホームページ「美の探究者、歴史と思想を語る」を見た。そこで判つたことは田中氏と私では次が違ふ。
主張者共産主義の評価ユダヤ人の評価
田中英道氏反対反ユダヤ
親共産だが唯物論には反対民族差別には反対。しかしイスラエル建国には反対

私が反ユダヤではない理由は、田中氏のホームページを読む前にフランクフルト学派の書籍を何冊か読みその後フランクフルト学派文化破壊論をインターネツトで目にして判つたのだが、ユダヤ人は欧州各地の言語を母語とするものの先祖の言語ではない。だからその国の文化にそれほど愛着を感じないのかも知れない。理由が明らかだから反ユダヤになる必要はない。
長年の伝統には理由がある。ユダヤ人が欧州各地に分散して住んだには理由があるし、パレスチナ人を押しのけて建国してはいけない。イスラエルは解散し住民は欧州各地で共栄共存すべきである。

六月二十八日(金)「田中英道氏と私の共通点」
田中氏はアドルノをはじめとするフランクフルト学派の哲学者たちが
アメリカに移っても、「社会研究所」という「権威」あるグループをつくることによって、うぶな学生を従えてアカデミズムを牛耳ることになり、彼らの意図する中産階級の意識の「変革」に貢献した、と言えるかもしれない。今もなお、「カルチュアル・スタデイーズ」とか、「フェニミズム」「ポスト・コロニアリスム」とか、名前を変えて、ある種の「変革」を目指している。


このうち後半の「カルチュアル・スタデイーズ」とか、「フェニミズム」「ポスト・コロニアリスム」とか、名前を変えて、ある種の「変革」を目指しているの部分は賛成である。今の日本にも社会破壊反日新聞(自称朝日)や小型朝日(自称毎日、中日)に見られるからである。かつての総評、社会党、共産党など本物の左翼であれば生活に密着してゐた。マルクスの時代は世の中自体が文化崩壊の時代だつたからマルクスの主張に文化破壊を含むのは仕方がない。しかし民族解放運動でそれを克服した。克服はしたが解放が終ると毛沢東やポルポトのように文化破壊に走つたから完全に克服した訳ではなかつた。
冷戦終結後の左翼崩れはどうか。死刑廃止、フエミニズム、多民族社会と社会を破壊してゐる。死刑廃止についていへば将来猿真似ではなく日本国内のあり方で死刑を無くすべきだ。しかしそれは死刑に該当する犯罪を無くすことで達成すべきだ。人を殺した人間の人権を主張するといふこれほど命を軽んずる主張はない。男女差別はなくすべきだがそれは夫婦単位で考へるべきで、離婚者については生活が貧困にならないやうするとともに離婚に至らない社会を作るべきだ。多民族社会といふ名の文化破壊には反対である。移住した人は差別なく温かく受け入れるべきだが移住したからはその土地の風習に従ふべきで船橋洋一みたいに移住者がゐるから英語で話せといふのは反対である。

七月二日(火)「小牧治、村上隆夫共著『ハーバーマス』その一」
ハーバーマスはフランクフルト学派だがユダヤ人ではない。だから
ハーバーマスには、ホルクハイマーやアドルノのような民族的少数派に特有の猜疑心や用心深さはなかった。


今の日本国内には、在日韓国朝鮮人を在日コリアンと称して反日に仕立て上げようとする日本人がゐる。まるでヒンズーとイスラムの対立を利用してインドを支配したイギリス人みたいな連中だが、彼らがフランクフルト学派の影響を受けた可能性は高い。
一九五一年にホルクハイマーが研究所を再開した時には、朝鮮戦争に中国共産党が全面的な介入を開始しており、東西対立は最高潮に達しつつあった。そして西ドイツでもアデナウアー政権はすでに再軍備を決定し、再建されたドイツ軍をNATOに編入して、西ドイツを反共主義の砦にしようとしていた。(中略)かつてのマルクス主義の旗をうっかり見せて、アメリカのうしろ立てを失なうならば、研究所はナチス時代のようにふたたび迫害の的になりかねない、と彼は恐れていたのである。そのためにこの学派のワイマール時代の知的な栄光は隠されてしまった。


朝鮮戦争の最中にアメリカのうしろ立てを気にするやうでは左翼崩れである。伝統社会を破壊して唯物世界にしようとする恐ろしい思想である。

七月三日(水)「小牧治、村上隆夫共著『ハーバーマス』その二」
一九八一年に発足したアメリカのレーガン政権は、ソ連との間で軍備拡張競争を開始し、(中略)中距離核ミサイルの西ドイツへの配備を廻って、一九八二年に西ドイツでは反核デモが空前の盛り上がりを見せた。

八五年に西ドイツを訪問したレーガン大統領は軍人墓地でドイツとアメリカの退役軍人が握手する和解の儀式を演出した。これに対しハーバーマスは
「過去の廃棄処理」と題する論説を発表して、「ドイツの連続性を再び確立しようという願望」を強く批判した。

ここでドイツといふ言葉が国を指すのかドイツ語を指すのか不明である。ドイツ民族を指すといふ考へもあるが私は民族といふ言葉はほとんど用いない。江戸時代までの日本人は他の藩に行つたら言葉が通じないこともあるしそれは朝鮮半島や清国に行つても同じである。スリランカでは一時シンハリ人とタミル人ゲリラの争ひがあつたが、元々民族の区別はなかつたといふ。シンハリ人どうしでも言葉が通じないこともあつたからだらう。ドイツも同じでスイスのドイツ語圏のドイツ語はドイツ人が聞いてもまつたく判らないといふ。或いはオランダ語は学問上は低地ドイツ語に含まれるがオランダ人やベルギー人はそれを認めたがらない。スイスやベルギーにはフランス語など別の言語の人もゐる。以上の理由で民族といふ言葉は西洋野蛮人の学問に過ぎない。
民族ではなく各地域住民の連続性なら賛成である。つまり私とハーバーマスはこの単語に関する限り相違はない。しかし
続いてハーバーマスは、一九八六年に「一種の損害補償」と題する論説を発表して、当時のドイツの歴史学界に見られる自国民の歴史に対する「弁護論的傾向」を批判した(以下略)

これは「歴史家論争」に発展した。論争の一方の当事者は
現代の産業社会において疎外されている人々に対して確固とした自己同一性(アイデンティティ)という心理的基盤を与えるためには、彼らが自分の属する民族の歴史に誇りを持つ必要があり、歴史学はこの実践的な目的に奉仕せねばならない。

これに対して
ハーバーマスは反対する。「…ドイツにおいてこそ我々は、ドイツ人の手で殺された人々への苦悩への追憶を…目覚めさせておく義務がある」

まづ前者の主張について「疎外されている人々」といふと疎外されたほうが悪い印象を受ける。しかし変化の変位が平衡に達しないときの現象であり、疎外された人が悪いのではない。対策を立てずに変化させるほうが悪い。つまり「疎外されている人々」ではなく「ほとんどの国民」である。ほとんどの国民に対して「自分の属する民族の歴史」ではなく「長年掛けて築いた人類の叡智」に誇りを持つべきだ。しかし長い年月には堕落もある。特に権力側の堕落は大きい。それへの補正が必要である。それらを考慮すれば前者の意見にはほとんど賛成である。
後者のハーバーマスはだうか。これでは日本にも存在する社会破壊反日日本人と変らないではないか。英仏蘭の植民地支配と植民地自体が独立し先住民を滅ぼした米国を棚に上げて自国の西洋化を図る。この時点で私とハーバーマスは正反対の立場となつた。

七月六日(土)「ジエームス・ゴートン・フインリースン著『ハーバーマス』その一」
次にジエームス・ゴートン・フインリースンといふイギリスの学者の著書(村岡晋一訳)を見てみよう。
一九八九年十一月にベルリンの壁が崩壊し、その直後にハーバーマスはドイツの統一をじかに目撃することになった。彼は、この統一をじかに目撃することになった。彼は、この統一の手続きの進められ方にきわめて批判的な人びとの一人であった。

決して民主主義の勝利だと迎合しないその態度は、かつての日本社会党に近い。しかし
一九九〇年代の初頭になると、ハーバーマスはアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの著作と、リベラリズムに関するロールズの考え方と、アメリカの立憲的民主主義の伝統にますます関心を示すようになっていった。ハーバーマスに対する左翼陣営の批判者たちは、彼の知的な経歴をしばしば次のように風刺した。ハーバーマスは資本主義に対するマルクス主義的な批判者としてスタートし、アメリカのリベラル民主主義の擁護者として終わったというのである。

これに対してフインリースンは、あまりに短絡的だとして
ハーバーマスはマルクス主義的な批判者でもあれば、マルクス主義に対する批判者でもあり、資本主義とリベラリズムのどちらにもつねに深刻な疑念を抱いていた。

資本主義に対するものは(1)資本主義前の段階、(2)社会主義の二つである。リベラリズムといふ偽善の制度を求めてはいけない。

七月七日(日)「ジエームス・ゴートン・フインリースン著『ハーバーマス』その二」
フインリースン著『ハーバーマス』を読んで感じたことは、ハーバーマスは広い範囲の考察をしてゐる。それに対して小牧治、村上隆夫共著『ハーバーマス』は敗戦国或いはユダヤ人虐殺に関しての狭い範囲だけを論じる。
日本にとりフランクフルト学派は、まづアジア対西洋思想といふことで大きな相違点がある。それを丸山真男ばりに西洋崇拝で読むと大変なことになる。ましてや反民族主義の美名でグローバルやリベラルを日本で美化すると、社会を崩壊させ大変なことになる。
二冊の本を読んで感じたのはこのことである。

七月八日(火)「左翼と左翼崩れ」
マルクスの後継者たちは民族解放戦線で唯物論を克服した。ホーチミンはその典型である。しかし民族解放戦線は米ソ冷戦下の戦略であり、目的ではなかつた。だから解放が終了するや毛沢東やポルポトのように内紛が始まつた。
フランクフルト学派は民族解放戦線を経験せず、アメリカの後ろ盾を気にするから左翼崩れである。日本の冷戦終結後の左翼崩れと似てゐる。だから唯物論だけを信奉し文化を破壊し社会を破壊する。国民からほとんど支持されないのに自分の議席だけ保てればよいらしい。左翼はよいが左翼崩れが駄目な理由である。(完)


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