三百八十八、千鳥ヶ淵の桜


平成25年
三月二十九日(金)「桜まつり」
先日東京地裁に行つたとき、昼休みに弁護士会館の地下食堂に置いてあつた「千代田さくら祭り」といふ小冊子をもらひ、さつそく今夜会社の帰りに千鳥ヶ淵の夜桜を見物に行つた。半蔵門駅で降りて英国大使館の前を通り、この通りと千鳥ヶ淵公園の桜は見事である。青いビニールシートを敷きお花見のグループもあつた。たぶん職場単位で来たのであらう。
これだけでも見事な桜だが、本番はこれからである。交差点を右折し千鳥ガ淵緑道はお濠の両岸を仮設照明が照らし、闇夜に桜の美しさが浮き出された。

三月三十日(土)「公式ガイドMAP」
小冊子にはよくないところがある。表紙最上段に「千代田さくら祭り」、その下に「2013 公式ガイドMAP」とあり、その右に「TAKE FREE」と書かれてゐる。小冊子の中身は日本語である。日本語の判らない人は読まないのになぜ「TAKE FREE」と書くのか。「map」も同様である。無教養な人間ほど英語を使ひたがるといはれないよう気をつけてほしい。
小冊子の中には協賛企業の広告が載つてゐる。これはよいことだ。しかし普通の企業は1/4ページの広告が多いなかで、明治大学、法政大學、共立女子学園、専修大学、日本大学、二松學舎大學の五つは1ページ広告を出した。小冊子の掲載料はたぶん安いし、地元とのお付き合ひの意味もある。しかし大學には多額の補助金が税金で支払はれる。花見は娯楽、大学は学問。立場が違ふ。掲載したから受験者が増へることはない。広告は遠慮すべきだし、千代田区観光協会は税金から援助のあるところに営業活動をしてはいけない。

三月三十日(土)その二「インド大使館」
緑道の終はりのほうに、うるさい音楽が聞こへて来た。どこかの悪徳企業が観覧客目当てに客寄せだらうと振り向くと「株式会社インド大使館」であつた。といふのは冗談で正真正銘の「インド大使館」であつた。
小冊子には4月の4日から8日まで桜フェスティバル2013と書かれてゐる。29日は特別に開催したのかも知れない。ビール、ワイン、インド料理、工芸品の模擬店が並び、インド舞踊の実演があつた。インド舞踊やインドの文字はタイやミヤンマーにもかなりの影響を及ぼしてゐる。親しみを持つて見学をした。出演者はたぶんインド人と結婚した女性たちであらう。日本語で質問に答へ、質問者のインド人は英語でも紹介した。
これはよくない。インドで今でも英語が使はれてゐるのはイギリスの植民地支配の傷あとである。ヒンディー語を公用語にしようとしてゐるが南部のドラヴィダ語族の反対もありなかなか進まない。だつたらヒンディー語とドラヴィダ系の二つを公用語にするか、あるいはサンスクリツト語を公用語にすべきだ。まづインドの内政の怠慢が原因で英語を使ふ。観客から見ると西洋といふ近代文化がインドに残存する踊りを紹介する。インド側にその意図がなくても観客の日本人にはさう感じる。
ここは日本なのだから日本語で紹介する。或いはインド大使館なのだからインドの言語で紹介し日本語にも翻訳する。どちらかにすべきだ。

三月三十一日(日)「昼の桜」
夜桜はよかつたので、昨日昼の桜にもう一度見に行つた。国立劇場、千鳥ガ淵公園、千鳥ガ淵緑道、戦没者墓苑と順に寄つた。戦没者墓苑では100円で菊の献花があるが、これは行はなかつた。宗教性が無いからである。事実帰宅後にインターネツトで調べるとフランス、ポーランド、クロアチア等の一部のヨーロツパで白菊が墓参に用いられるため日本、中国、韓国でもその影響を受けたとある。宗教性がないものは感覚で判る。だから代はりに合掌し「南無仏、南無法、南無僧」と三回唱へた。
インド大使館は本日も催しをしてゐたが模擬店の音量は小さく緑道までは聞こへなかつた。次いで靖国神社の「さくらフエステイバル」を見た。これは千代田区商店街連合会の主催で靖國神社は場所を提供しただけである。特設舞台の番組(番組といふとテレビを連想するが、寄席や相撲やその他の催しで日程を書いたものが番組である)を見ると演歌、歌謡曲、踊り、かつぽれ阿波踊り、和太鼓といつた和風仕立てのものもあるが少数派で、ビツグバンドジヤズ、POPSバンド、カンツォーネなど洋風のものが過半数である。靖國神社で洋風の音楽を流すことは祭られた戦死者たちに衝撃であらう。
「さくらフエステイバル」を離れ、靖國神社の舞台では和楽を演奏してゐた。新宿区戸塚の人達であつた。丁度大人の演奏が終はり高校生の人達の演奏が始まつた。高校生とはいへ十年の経験があるさうだ。日本の音楽教育はかういふ音楽に親しむようすべきだ。鹿鳴館時代ではあるまいし西洋音楽の猿真似が精神を堕落させる音楽をたくさん流行させることに文部科学省は気が付くべきだ。

三月三十一日(日)その二「昭和館としようけい館」
次に昭和館屋外の戦前戦後の桜の写真展を観た。上野公園の戦前の桜はこれほど桃色が濃かつたのかと驚いた。今の上野公園は老木で色が白いからである。或いは白黒写真に着色したので濃くなつたのかも知れない。昭和館屋内の「中原淳一の生きた戦中・戦後」も観た。
次にしようけい館(戦傷病者資料館)で花森安治の特別展を観た。以上は「千代田さくら祭り」の小冊子に載つてゐたから寄つた。しようけい館で思ひ出すのが、二十八年前に環境計量士の講習でにつしよう会館に行つたことである。大日本印刷の裏、大蔵省印刷局記念館などの並びにあり、一階にポルシエといふレストランがあつた。講習は五日だつたか続いたが、二日目ににつしよう会館は財団法人日本傷痍軍人会が経営する会議室、宿泊施設だと知つた。なぜ一階にポルシエといふ洋風レストランがあるのか疑問に思つた。
その後の二十八年間にプラザ合意による円高、バブル経済、総評の解体、旧ソ連の崩壊、西洋文明の急激な流入、不景気による失はれた二十年と続いたが、当時29歳だつたポルシエへの感覚と、今の57歳の靖國神社での西洋音楽への感覚がまつたく変つてゐない。これは当時の多くの国民の感覚でもあつたためだらう。
しようけい館と昭和館と、更にもう一つ西新宿にある平和祈念展示資料館はその間に政府の感覚が大きく変はつたことを示す。昭和年間は平和は尊いといふ素朴な感情であつた。しかし平成年間は米英が正しくて日本は間違つてゐたといふ操作された感情である。中原淳一のように洋風の絵を描いた人でさへ、本人や周りの人の文章には兵役時の反発は見られない。花森安治が戦後に発行した雑誌「暮らしの手帳」にも見られない。かつて昭和天皇が、中国や東南アジアの人達に対しては戦火に巻き込んで済まなかつたといふ思ひを持つてゐたが、米英仏蘭に対してはアジアに植民地を持ち軍隊を駐留させたから戦争になつたといふことで謝罪はしなかつたことと同じである。
ところが平成年間に入り、米英は正しくて日本は間違つてゐたといふ西洋の帝国主義を美化する論調ばかりになつた。西新宿の平和祈念展示資料館はその傾向が強く、旧ソ連のひどかつたことばかりを強調し、つまりは米英への賞賛につながつてゐる。戦争は両方悪いといふ本来の平和運動に戻す必要がある。(完)


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