37、学説自ら広まらず
平成十六年十二月廿一日
5年8ヶ月の間作ってきたホームページをここ1ヶ月で大幅に手直しした。その理由は、
去る12月18日に慶応大学でCOE公開シンポジウム「小学校での英語教育は必要ない --- 英語教育のあるべき姿を考える ---」が開かれた。私も11月1日の受付開始と同時に申し込んだが1週間ほどして12月18日は仕事だったことに気付き、あわてて取り消しの連絡をした。主催者の慶応大学教授大津由紀雄氏から丁寧にお返事をいただいき、「英語堪能者は性格が悪い人が多いかどうかはわかりませんが、」とあった。実は私も本当かどうか気になっていた。そこでこれまでのホームページを見直したところ駄文だらけなのである。朝日新聞をとやかく言えた義理ではない。数年前まではインターネットの接続料金が1分ごとにかかり、素早くホームページを作る必要があったという事情を考えても放置していい筈はない。
1 論文
新しい学説は論文で発表されるが、学会内で注目されても一般の目に触れることはまったくない。以前、官僚は社会のご意見番に、と主張したがやはり官僚には無理である。学者こそご意見番の第一候補である。
戦後の日本はアメリカの物真似で来たがそれでいいのか等々、議論すべき課題は多い。専門分野は論文と学会で行くべきだが、それを議論し広め社会に役立てるには別の方法を考えないとせっかくの頭脳が無駄になる。
2 発明自ら利益を生まず
在職中に特許を取った人が退職後に高額の対価を要求して裁判を起こし話題になったことがある。当然だという意見と変だという意見が入り混じった複雑な気持ちを持った人が多かったのではないだろうか。
昔の唱歌や小学校校歌には、作曲者や作詞者が不詳のものが多い。たぶんまったく金銭の見返りがなかったのである。
発明しても真似されまったく見返りがないという明治あたりまでの状態は行き過ぎであるが、発明した人がすべての利益を独占するというのも行き過ぎである。まず新発明は人類を果たして幸福にするのかどうか。人類は長いこと漸進的に文明を築いてきた。その文明を200年や300年の新発明とかで破壊していいのかどうか。
発明者が生活できるくらいの対価を得ればいいのではないのか。
3 旧説には福がある
既に発表された内容を論文や学会で述べても誰も注目しない。しかし人類は世界の至るところで同じ発明や発見を繰り返しては忘れるということを繰り返して来たのである。
新しいことを自分が発明発見するという功名心は学問の敵である。
自分の学説だろうとなかろうと旧説のなかで社会の役に立つものを見つけ広めることが重要である。
4 学説自ら広まらず
国民は税金や子供の教育費を通じて学者を支えているが、国民が学者に望むことは、1つは学生を社会に貢献する人材に育てることであり、2番目は社会が必要とする学説を広く国民に紹介することである。
自分の新説は趣味道楽余興かくし芸として、というは言い過ぎとしても3番目に行ってほしい。
今回、大津由紀雄氏が公開シンポジウムを開いたことは社会が必要とする学説を広く紹介するものであり、心から敬意を表したい。
TRONを広めるため活躍されている坂村健氏とともに、いつかこのホームページで特集を組んでみたい先生方である。
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