三百六十三、高野長英


平成25年
二月八日(金)「佐藤昌介氏『高野長英』」
市立図書館で佐藤昌介氏『高野長英』といふ本を見つけた。高野長英は仙台か盛岡の出身だつたなと思ひながら読んだところ水沢の出身であつた。昨年水沢に一泊したとき高野家を外から見ながら説明板を読み、高野長英記念館は朝が早く開館前のため前を歩いたことを思ひ出した。
高野長英は実父がなくなり、母は長英、二人の兄弟を連れて実家の高野家に複籍した。高野家は水沢伊達家の従医で長英は伯父の養子になつた。

二月九日(土)「高野長英の性格」
私は高野長英のことはほとんど知らない。牢獄に入れられたときにたまたま火事があり脱獄したのだと思つてゐたくらいである。実際には長英が牢獄の使用人に放火させたのだつた。今回始めて伝記を読み感じたことは、高野長英はずいぶん厚かましく無神経な人間である。
叔父の養子となり、まづ養父の反対を押し切つて江戸留学をした。このときは長英、兄、従兄弟と医者の卵が三人そろつての留学だからまだ周囲も理解した。ところがその四年後に養父の承諾を得ず長崎に行きシーボルトの塾に入つた。それまでも毎年学資四両を送つてもらつたが更に三両送るよう手紙を送り、伯父はこれには激怒し以降手紙を断絶した。伯父は病気で二年後に亡くなつた。娘と結婚させ高野家を継がせる予定だつたのに勝手なことばかりをするため心労も重なつたに違ひない。
長英は養父の一周期までには帰郷すると約束したがこれも破つた。親族たちは使者を派遣したが仮病を使ひ、婚約を破談にして養子を迎へて高野家を継いでほしいと述べた。医者が仮病を使つてよいはずがない。著者の佐藤氏は
このように手前勝手で、おのれのエゴをとおさずにおかない厚かましいところが、長英の本来の持ち味というべきであろう。ただし、これまでたびたび指摘したように、その根底には、ひたむきな向学心が働いていたことを忘れてはならない。

といふが、この点が私と佐藤氏の相違点である。長英は医師としては評判が悪かつたらしく患者が少なく、単なる翻訳家である。日蘭辞書は存在はしたから、翻訳は目新しいことではない。私は十年以上前から言つてきたが、語学は得意な人はとことん修めるべきだ。外国語学科の教授や通訳である。しかしその他の人はほどほどにしたほうがよい。
二つの言語を収めるといふことは二つの言語の間に関連がない限り、人間の頭脳に不快感を与へる。私は仕事で七百ページくらいの翻訳をしたが今でも英文を読むのは好きではない。特に頭の疲れてゐるときは読んでも頭に入らない。だからほどほどに抑へるべきだ。
高野長英はずつと翻訳をしたから世間の常識とずれてしまつたのではないか。長英自身「早く蛮学〔蘭学〕に入りて、聖経〔儒学の書〕を読まざれば、身のおこない正しからず」と後に著述した。

二月九日(土)その二「身持ちの悪さ」
・長英は学殖がゆたかで、とくに語学の才はシーボルトの門下のなかでも抜群であった。しかし、その反面、強烈なエゴがわざわいして、蘭学者仲間の評判はかんばしくなかった。
・それにまた身持ちもわるかった。長英が江戸にもどって開業したさい、坪井信道が(中略)長英の大言壮語癖と放蕩癖を皮肉っている。かれの酒好き、女好きは有名であった。
・宇和島藩士松根図書は、のちに「長英は女と酒となくては一日もいられぬ性」であったと語っている。


これらについて佐藤氏は結論として
しかし、もちろんこのことは、長英の人間的価値をそこなうものではない。かれがしば しば誤解されがちな、優等生型の人物であったとしたら、かれが後年、獄中生活五年、地下潜行六年、合わせて十一年という、長期にわたる苦難に満ちた日々を耐え抜くことができなかったであろう。

と書くが、私は逆の意見を持つ。モリソン号事件の後、幕府は目付鳥居耀蔵と伊豆韮山代官江川英竜に江戸沿海調査を命じた。鳥居は昌平校大学頭林述斎の次男で蘭学者を恨んでゐた。しかも鳥居と江川は不仲であつた。更に首座老中水野忠邦ら海防推進派が守旧派との政争に敗れた。これらが重なり江川らと人脈の繋がる渡辺崋山と高野長英は逮捕された。
崋山は在所蟄居、長英は永牢であつた。どちらもその著書が有罪となつたが、崋山は鎖国政策まで批判するのに対し、長英は道徳上から打払令を批判するに留まる。長英はせいぜい所払ひで済むと楽観してゐたが永牢となり、一方で崋山のほうが罪は深いはずだが在所蟄居で済み、実際には屋敷内で他人と交渉を持つことが許された。これについて佐藤氏は
崋山が士分の身であったのにたいし、長英は町医者という、しがない庶民にすぎなかったからである。かりに長英が水沢の伊達家と縁を切らずにいたら、おそらくかれも崋山と動揺な判決をうけたであろう。

と推定するが、ここも私は逆の意見を持つ。今の裁判でもさうだが、犯罪そのものだけではなく情状酌量の余地もある。長英の養父への裏切りや身持ちの悪さは当然加味される。儒学と関係の深い鳥居耀蔵が関係者だから身持ちの悪い者はますます冷遇される。

二月九日(土)その三「西洋文明を混ぜると」
織田信長と聞いて、残酷を思ひ浮かべる人は多い。織田信長の時代に西洋文明が流入したからだ。高野長英の時代も西洋文明が急激に流入し始める時代であり、長英が養父を裏切り、身持ちも悪かつたのはそのためではないのか。明治維新以降に日本が軍国の道に走つたのも同じ理由である。そして現在、西洋の猿真似で消費税増税をたくらんだ連中がゐた。西洋の猿真似をしてもろくなことはない。(完)

二月十日(日)「鶴見俊介氏『高野長英』」
このシリーズは一旦終了したが、念のため鶴見俊介氏『高野長英』も読んでみた。佐藤昌介氏とのあまりの違ひに驚くばかりである。鶴見氏は高野長英を悪くは書かなかつた。長崎時代の飲酒についても
江戸での修行時代に酒色を断じて遠ざけた高野長英は、長崎に来てからは、鳴滝塾においては真面目いっぽうで知られてはいなかったようである。謹厳の見本としては長英ではなくて岡研介ということになったらしい。

と控へめな書き方である。謹厳の見本ではないとするだけで、身持ちが悪いだの酒と女がなければ一日もいられぬとは書いてゐない。鶴見氏の本は昭和五十年、佐藤氏の本は平成九年に出版された。二十二年間に日本は変はつてしまつた。人間はよい行ひのときも魔が差すこともあらう。平成年間に入りよい行ひを勧めるのではなく勝手気ままに行動するのがよいことだ。それが自由だ、民主主義だといふ奇妙な世の中になつた。それが二冊の本の内容となつて現れた。(完)


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