三千三百(うた)1.母の退院日記、2.空振りの鷺山訪問
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
八月三十日(日)
妻、下の子、小生の三名で、母の面会に行った。既に気管支炎はほとんど治り、あとは食べなくなったことへのリハビりだ。その間に、介護医療院への転院が予定される。だから、退院日記とした。早く良くなるように、との希望を籠めた。
今回は、口ではなく、鼻から管を通してあった。前回は、管を抜かないやうに両手袋をベッドに拘束したが、今回は手袋を手に付けるだけだった。眼を開けて、顔に表情もあった。しかし、意識が無いやうだ。或いは、声を出せないだけかも知れない。
面会は二人までなので、一人は待合室に座り、二人づつ面会した。隣のベッドの娘さんも、来られた。暫くして、病院を後にした。
二人は戸田公園駅へ、小生はバス停へ行くと言って、分かれた。実際は、バス停を過ぎて蕨駅まで要害通り経由で歩いた。これで、四つの経路を、二回づつ歩いた。
一、病院から家まで(国道十七号経由、夜間と昼間一回づつ)
二、蕨駅から病院まで(中央土橋通り経由、往復)
三、西川口駅から病院まで(往復)
四、蕨駅から病院まで(要害通り経由、往復)
閲覧注意本日は最初、国際興業のバス一日乗車券を買ひ、さぎ山記念公園まで乗らうと考へた。昔は大門経由だったが、今は見沼田圃を高架で越す道路が出来た。高架も二本あり、朝日坂上経由だ。
昔の鷺山のバス停は、今の野田小学校の辺りだらうと、10年近く思ってきたが、今回調べて、さぎ山記念公園だと分かった。勘違ひした理由は、自転車でさぎ山記念公園まで行ったときに観た光景が、昔と異なってゐた。
鷺山のさぎは、今は越谷市内の中川河川敷へ移動したさうだ。
新しき所へ行くか 久しぶり訪れるとき 調べると新たな知識次々分かる
反歌
引っ越して昭和四十と八年に鷺山行くと木と土のみが
本日はそれほど気温が高くないので、行く直前に、バス一日乗車券を中止にした。そして往復とも、上記四の要害通り経由を選んだ。ここまで閲覧注意
八月三十一日(月)
前回面会したときは、眼を開けても表情が無く、管を口から入れるので、口も少し開いたままだった。これだと嚥下のリバビリは無理だらう。暗い気持ちになった。
昨日は、鼻から管を通し、予定表には、嚥下のリバビリが書いてある。少し期待を持った。インターネットで調べると、母は認知症が進んだと云ふよりは、せん妄の可能性が高い。認知症は、急には進行しないとある。
母の孫四人のうち、妹の娘は看護師、小生の娘は獣医師だ。医療家族である。妹には病状を伝へ、お見舞ひに行ったほうがいいことを伝へた。これは先週なので、このまま意識が回復しない状態が続くのでは、と心配したときだった。このとき、姪(母から見れば孫娘)に看護師の立場から会ひに行ってほしいとも伝へた。
もう一人の孫娘(小生の娘)に訊いたところ「動物は自分で食べれなくなると、厳しいかも」と返事があった。動物も経管栄養があると知り訊いてみたが、その後、一時的な治療と分かった。
それは、医師から電話があったときも同じだった。経管栄養の間に治るならよいが、ずっと続くようだと、そのときは口経由だったので数日が限度で、胃婁の話が出るだらう。そのときに、難しい選択を迫られる。昨日面会し、それが遠のいたので、気持ちが楽になった。
柞葉の母の苦しき姿には口に細きの管通す 今回鼻へ移るにて少し明るく心安らぐ
反歌
年齢に相応なるもあと二年母の両親九十六まで(終)
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