三千二百九十四(朗詠のうた)1.母の入院、2.十七号中山道県南のバス路線
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
八月十五日(土)
母がデイサービスから帰宅のときに、咳が少し出るのと、午後は熱が37.5度ありベッドで横にしてゐた、が連絡された。
僅かだが湿性の咳がある。いつものやうに、夕飯を食べて、歯磨きをして、就寝させた。
むらぎもの心微かに暗くなる湿める咳あり僅かと云へど


八月十六日(日)
僅かな湿性の咳が続き、熱は36.8度で平熱だ。母は体温が普段から高めなので、これは平熱だ。
午後に従妹(母から見れば妹の娘)が、母を訪ねて来た。

八月十七日(月)
僅かな湿性の咳は昨日と同じ、体温が37.2度で、やや高めだ。昼食は、半分しか食べなかった。夕食は、二口くらい食べた後に、食べなくなった。明日は医院へ通院しないと駄目かな、とインターネットで予約しようとすると、明日は予約できない。別の医院は予約不要だが、明日は小生も妻も、午前は用事がある。午後で間に合ふか、と話すうちに、母の意識が混濁としてきた。
これでは駄目だ、と救急車を呼んだ。一昨年は、コロナ禍が収まらず、新たにインフルエンザが始まった為に、到着まで暫く時間が掛かった。更に、母のほか小生が付き添ひで救急車に乗ったあと、病院を見つけるまでに、中で暫く待たされた。
今回は、119番を終へると、すぐに救急車から電話があり、病状を説明するうちに、到着しました、と云はれた。そして病院も、蕨市立病院は駄目だったが、二番目の戸田中央総合病院がすぐに決まった。前回は発車してからも、病院までが長かった。交差点を通過するので、何回かサイレンを鳴らした。今回は、あっと云ふ間に感じた。
前回は、意識があるものの、酸素不足か何回か警報が鳴った。今回は、意識が無く、しかし警報は鳴らなかった。母が湿性の咳を極めて短時間した。少し空いた隣の消防士さんが嘔吐受けを取ったが、小生は慣れてゐるので、嘔吐受けがあることに、初めて気付いた。
助手席の消防士が、淡の絡みを検知する装置か何かを、母に付けた。

八月十八日(火)
二日目の本日は、担当医となった先生から電話があり、脳梗塞の惧れがあるのでMRIの合意書に署名に来てほしい、とのことだ。早速、表院へ行った。病状説明があり、気管支炎だ。あと、胸に水が溜まってゐる。
話の流れで、不整脈があることを話した。お薬手帳で分かることなので、医師からもさう云ふ話の流れだったので、それを補足した。

八月二十日(木)
三日目の昨日は、妻が面会に行った。四日目の本日は、小生が行った。従妹(母の妹の娘)も、本日行くので、母には何回も伝へた。と云ふのは、病室に入ったときに、母は上半身を起こし、足をベッドから横へ下ろし、どこから行かうとしてゐた。点滴を付けた状態だし、母は介助しても歩ける状態ではない。看護師が気付き、元へ戻した。
なぜ病院にゐるのか分からない様子なので、気管支炎だよ、救急車で運ばれたのだよ、と何回も説明した。併せて、あと一時間で姪も来るよ、と何回か繰り返した。
医師は外来中だが、看護師に言づてがあり、脳梗塞は、大丈夫とのことだった。退院時期は、医師ではなく看護師の感触で、一週間か二週間とのことだった。ソーシャルワーカーと挨拶程度の話をした。できれば退院させたい希望を伝へ、咀嚼機能を測定してから、また相談することになった。

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八月二十二日(土)
病院から自宅まで、国道17号中山道なら一本だ。かつては、浦和駅西口と池袋駅北口を結ぶ路線バスが、二十分に一本あった。後に、浦和駅から高島平操車場に短縮された。更にその後、浦和駅から西川口駅に短縮された。ここまでは、病院から自宅まで、これらのバス一本で移動できた。
そして、最後に廃止された。これらのバスと、埼玉県内の半分ほど重複する路線に、浦和駅西口から蕨操車場があった。後に、蕨駅西口まで延長された。このバスだと、六割を歩かなくてはいけない。運賃を払ふのにつまらない。
代はりに埼京線を使ふ方法がある。しかし北戸田駅から我が家迄二十分だ。病院から戸田公園迄五分、電車の待ち時間と乗車時間が十分。合計三十五分だ。
これなら、病院から我が家迄、国道を歩いたのと変はらない。普通に歩けば一時間だが、小生は速いので時速六キロで四十分だ。
だから、救急車で病院まで行った帰りは、国道を歩いた。翌日は、往路を蕨から病院まで路線バス、帰りは国道を歩いた。救急車の帰りは、真っ暗だった。翌日は明るい。それでも、あ、昨日もあった、と幾つも気付いた。
三回目の面会では、蕨から病院まで、往復を歩いた。これは、国道経由で全行程歩くより、五分ほど短縮になる。それより、全線を暑い中を歩くより、途中で冷房の効いた電車に三分だが乗れる効果を考へた。
ここで、病院から自宅まで、バスがあった時代に遡った。現在も走る区間は黒色、走らない区間は赤色だ。
本町一丁目-上戸田稲荷-上戸田五丁目-北町四丁目-錦町二丁目-北町交番-北町五丁目-法華田-東谷田圃-辻五反田
梅雨明けの狂ふ暑さは 西の洋狂ふ人たち作りしも それを乗り越え秋の心地に

反歌  秋が立ちひくらしの時ふるさとへ御霊を偲び皆が集まる
反歌  江戸の世に国を縦横走る道乗り合ひ廃れ秋歩きかな
反歌  一つ目の反歌月遅れお盆故母は夢路で里帰りかな
反歌  一つ目の立秋既に過ぎた故ひぐらしお盆お香の煙(終)

追記八月二十三日(日)
浦和駅西口と池袋駅北口乃至西川口駅を結ぶバスのほかに、浦和駅西口と蕨操車場を結ぶバスも、二十分に一本あった。このバスは、浦和駅周辺では旧中山道を走った。
このバスが、後に蕨駅西口行きになり、蕨市立病院を経由した。後に、日本車輌蕨工場跡地の巨大公団住宅「川口芝園団地」を経由する路線も作られた。そして2003年に、私立病院経由は廃止された。
妻と、蕨市立病院だったら、バス一本で行けたのに、と話したが、私立病院経由は既に無いので、五百メートル歩く距離だった。

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