三千二百二十九(朗詠のうた、普通のうた)仏法は、初期、部派と二つの分類で十分
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月十一日(木)
仏法を分ける場合「従来、大乗」と分けることが多い。「従来、大乗、密教」と分ける場合もある。しかし「初期、部派」が正しいのではないだらうか。
アショーカ王の前までは、特殊な修行者の集団だった。修行者を支へることは、在家の功徳になるとする社会の慣習から、在家を信者とすることもできる。
アショーカ王の時代以降は、仏法の修行者は一般の人々になり、拡大した。そして部派に分かれた。部派の一部は、教義に大乗思想を含むやうになった。
唐土へ広まり、ここではほとんど大乗経典のみが重要視されたが、従来が維持し続けた戒律は、守られた。つまり大乗各派は、部派の一部である。
元のインドでは、出家するときに用ゐた戒律が何かによって、重複しない部派が決まる。とは云へ、大乗を上乗せする比丘は、大乗の比重がほとんどだ。寺全体が大乗もあるが、従来と大乗が混ざることもある。つまりインドでは、従来か大乗か、大乗の時はどの経典かは、一つの部派内の学派であった。戒律で、部派内の分裂や争ひは禁止されてゐたから、共存することができた
唐土とインドに対し、極めて悪いのが日本である。奈良仏法は学派だったのに、平安時代になって延暦寺が出来てから、徒党になってしまった。そればかりか、大変な苦労をして渡航した鑑真和尚の戒壇を無視し、円頓戒と称する戒を作った。これが機能しないことは、山門寺門の争ひや、僧兵の騒ぎで明らかだ。或いは、明治政府が妻帯を認めたところ、早速飛びついたことでも明らかだ。
鎌倉時代に延暦寺で修行し、後に宗派を立てた開祖たちは、延暦寺の堕落への批判、と取るべきだ。少なくとも、延暦寺の発展でもなければ、延暦寺を時代に合はせた訳でもない。とは云へ、日本の仏法が抱へる欠点を、引き継いでしまった。宗派の徒党性である。栄西和尚と道元和尚は、渡航し、宗派の開祖にはならなかったが、後継者たちは日本の宗派性に飲み込まれた。
秋津洲留まる人は 唐土や仏の生まれし国にある良き習はしへ 帰るを出来ず
反歌
鎌倉の世を末と呼ぶ事さへもほかの国には異なる世あり
六月十一日(木)
禅宗が大乗かどうか、を論じる記事を読んだ。前述のやうに、仏法を部派と大乗を分けることは、意味が無い。しかし今回は、別の角度から考へたい。禅宗は坐禅の学派だ。坐禅以外は、他の学派を兼ねるので、唐土の環境だと経典は大乗に傾く。それだけのことだ。
達磨大師が楞伽経を用いた伝承がある。これとて、大師が持ってきたのではなく、もともと唐土にあるものを流用したのだらう。たまたま、言ひたかったことが楞伽経にもあった。これはあり得るが、楞伽経に載るたくさんの大乗原則に賛成した訳ではないだらう。
釈迦仏が説きし教へに 時を経て加はる従来と大乗のお経は派論蔵違ひは在らず
反歌
瞑想と止観と坐禅皆同じ半眼公案観察僅差(終)
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