三千七十四(普通のうた、朗詠のうた)加来耕三「歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓」は期待外れ
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
一月六日(火)
加来耕三「歴史の失敗学」は、最初読んだときは、なるほど、と思ふ。しかし五分後には、違ふのではないか、と別の考へが出てくる。まづ黒田官兵衛について
なぜ、彼の策略は可能であったのだろうか。(中略)正直者であった、との(中略)結論が出てくる。
ここまでは同感。とは云へ本能寺の変のあと
「おめでとうござる。これにて秀吉殿の天下でござるな」
この一言で、山崎の合戦の後、側近から遠ざけられた、と加来さんは云ふ。小生が思ふに、官兵衛はそんな一言は云はなかっただらう。また、山崎の合戦の後に、官兵衛は部隊長に出世した。もはや側近ではなかった。
側近は禄が低くて役立つの時に勤める職にして 出世をすれば双方煩し
反歌
近代の組織世襲に非ずして出世を目指し煩しを越す
石田三成については
己れの身中の純然たる"正義"(節義)は、諸侯たち(中略)にも必ずあるはず(以下略)
豊臣子飼ひの武将たちから、三成が嫌はれた事実を無視してゐる。三成は、加来さんが指摘した四国、九州、朝鮮への輸送では能力を発揮したやうに、事務は得意だったが、全体を見る目に欠けたのだらう。もう一つ、秀吉の寵愛をよいことに、傲慢な振る舞ひが多かったのだらう。
真田幸村では、本人についての記述には問題がないものの、関ケ原の合戦に
真田父子の戦略眼は、来たるべき東西決戦が、大会戦による一発勝負になる、と読んだことを基本として
関ケ原の戦ひは、結果として天下分け目の戦ひになったのであり、この一戦ですべてが決するとは、当時はほとんどの人が考へなかったのではないか。幸村の義父が大谷吉嗣、幸村の兄信幸の義父が本田忠勝では、兄弟が分かれるのも仕方がない。
二十五人には曹操と韓信が含まれる。本文は、ほかの章と変はらない。目次だけが、一段下げてある。執筆者と出版社のせめぎ合ひだ。曹操について
天下統一できずとも、事実上、中国全人口約四千九百万の五十五パーセントを支配する王となった。
そのおかげで、その後の歴代中国王朝は、ローマ帝国が分裂したヨーロッパとは異なり、小さく小さく国が分裂することもなく(以下略)
中国は、小国に分かれたりまとまったりを繰り返した。曹操は無関係だ。
太田道灌は
扇谷上杉家を継いだ政真が戦死。山内上杉家の家宰・長尾景信も病没し(中略)景信の子・影春が(中略)叛逆に出る。(中略)道灌はこの混乱を食い止め(中略)その手際があまりに良すぎた。(中略)本来であれば道灌は、ここで"下剋上"に徹すべきであったろう。そうすれば北条早雲が名を成すより早く、道灌は関八州を制圧できたにちがいない。
鎌倉幕府で、北条宗家は執権になったが将軍の地位は狙はなかった。それと同じで、道灌は扇谷上杉の家宰で問題はない。家宰として従へることのできる人数と、直臣として従へることのできる人数がゐる。後者の比率が圧倒的優位ではなかったことは、北条宗家も同じである。扇谷上杉家が愚か過ぎた。
江戸の街道灌濠と山吹の里へ降る雨 土の上恵みの水を七重八重咲かせ松原つづく海近くにあれど 軒端越し富士の峰さへ今には見えず
反歌
道潅は宮居濠の名山吹の里の伝へは今へと続く(終)
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