三千五十二(朗詠のうた)連歌を復活、外伝
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月二十四日(水)
連歌を復活しようと考へた理由はまづ、所謂俳句と云ふ語が好きではない。この語を使ひ始めたのは子規なので、そのため子規に、よい印象を持たなかった。更に歌でも、破調を容認するため、嫌ひになった。子規は上手な歌詠みには無レ之候、と嫌味を云ひたくなる。
貫之は下手な歌詠み有之候 正岡子規上手な歌詠み無之候
江戸時代に、俳諧発句は俳諧連歌から独立して作られるやうになった。とは云へ、完全に独立した訳ではなく、俳諧連歌としても用ゐられた。その流れを無視して、明治以降は発句だけで評価するから、重箱の隅をほじくるやうなことになる。
江戸時代と同じやうに、連歌として使用する発句を作らう。今まで発句に冷淡だったのは、さう云ふ事情があった。これからは発句をどんどん作るぞ、となるかどうかは分からない。それより、既にある上の句に下の句を作ることから始めよう。それが今回の企画である。
昔から続く歌には味はひが それ故今よりまた始めよう
反歌
黒船の秋津洲には壊された物多くあり歌を戻さう
反歌
付け合ひを連ね共詠む諧れも後に江戸の世上の句のみも
作り終へ、全体を視て感じたことは、上の句だけに関係する下の句を作る時期と、次の上の句と繋がる下の句を作る時期を、二回ほど往復したあと、最後の十句辺りでようやく両方と関係するものになった。だんだん慣れてきた。
それより多い間違ひは、上の句が五七五なので、下の句も五七五に作ってしまふことだ。無意識のうちに起きてしまふ。五十句まで作り終へた後の、一回目推敲はこの間違ひを直すことが多かった。と同時に、次の上の句を意識するあまり、前の句との繋がりに乏しいものを修正した。
二回目の推敲も、前または後の句との関連が少ないものを直すことがほとんどだった。三回目で、文学性に乏しいものを直した。以上三回の推敲で何とか公開できる内容になった(と本人だけが思ってゐる)。
本歌取りの特集(特集は記事とも呼ぶ)を三十五組んだときは、頭痛になって眼科へ行ったり脳神経外科へ行ったり大変だった。白内障の手術後で、最初眼のごろごろから始まったが、眼は脳の下部機関で目から頭痛は起きないと説明され、次に神経内科へ電話を掛けたところ、まづ脳外科へ行くやうに云はれた。
今思へば、あれは歌の作りすぎが原因だ。通常は、一つの特集に七首前後だ。それに対し、本歌取りは一つの特集で二十首前後だ。特集が三十五なので、七百首だ。
今回の連歌は百首で、上の句は芭蕉が作ったので、字数から見れば四十一首だ。しかし前後二つある上の句の、意味と背景を調べてから、合ふやうに作るから、かなり疲れる。前回の頭痛騒ぎは絶対に避けたい。
特集を作るのに、二十四日から始めて二十五日早朝まで掛かった。通常は、特集内で十二月二十三日(火)と日にちを分けるが、百韻(百句連ねる)なので、途中で分けることができなかった。今月は一日に一つか二つ特集を作ることが多い。それなのに二十三日が無いのは、さういふ事情による。(終)
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