三千四十七(うた)短編物語(石原、桶狭間の参謀に)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月十九日(金)
第一章 今川と織田のAI登場
今川義元と織田信長をAIで復元した。そして石原莞爾を登場させ、桶狭間の戦ひを再現することにした。三人以外の膨大な人たちは、全体を一つのAIで稼働させた。便利な機能である。
石原にどの合戦がよいか尋ねたところ、桶狭間と答へた。その理由は、桶狭間の後は、信長、秀吉、家康と、変人ばかりである。信長は焼き討ち、秀吉は織田家乗っ取りと朝鮮出兵、家康は鎖国と寺請け制度。
三人が出る前に、戦国時代を終了させる決意だった。と云ってもAI上の話だが。
秋津洲戦国時代を終はらせる 普通の人に出来ぬ技 三変人が現れて消えて現れ江戸時代へと

反歌  信長は焼き討ち秀吉朝鮮へ家康鎖国三人狂ふ

第二章 桶狭間の戦ひ
いよいよ明日は、桶狭間だ。義元は全軍に、今夜はぐっすり休め、と伝令を出さうとした。まだ昼過ぎである。末端まで命令が届くには、今から行ふ必要があった。すると石原がそれを止めた。今夜に備へて、偵察を強化し、伏兵を配置し、全軍に戦闘準備をさせるべきだと云ふ。
義元のAIも、桶狭間の後から現代までの歴史と、近代科学を既に学んだ。しかし、と続ける。兵は鎧を着て、歩いて移動する。毎日、緊張状態を続けることは不可能だ。石原は、信長のAIも歴史を学んだ。今川軍が桶狭間を警戒することを知ってゐる。その裏をかき、本日奇襲するでせう。
こちらは、織田軍を防ぐだけではなく、信長を伏兵で討つ必要があります。信長は学習能力が高い男です。逃がすと、あとが面倒です。AIなので、増々面倒です。義元は、なるほど、と喜んだ。

第三章 信長の死
石原の予想どほり、信長は夜襲をかけてきた。それを見越して防御と伏兵を準備したので、信長は死んだ。義元は、信長が将来起こすはずの、一向一揆全員虐殺、焼き討ちなど野蛮な行為を批判した。石原に今後も味方になってほしい為だった。
それに対し石原は、信長が傲慢になったのはかなり後のことで、柴田勝家の裏切りを許したり、信長が擁立した十五代将軍義昭の挙兵に対し、命を助けた。秀吉も権力を握る前は、人たらしの秀吉と云はれた。家康も秀吉が死ぬまでは、律儀な方と呼ばれた。
今川殿も、尾張や美濃を併合するあたりは大丈夫ですが、京都へ進出するときは気を付けてください、と述べた。

第四章 石原莞爾消える
今川軍は、破竹の勢ひで進軍し、つひに京都を占領した。新しい将軍を立てて、幕府を再興した。その途端、義元は傲慢になった。幕府に従はない大名は即、取り潰しだ、と叫んだ。そして播磨を攻めることにした。
ところが石原はゐない。二日待っても三日待っても、一週間待っても、戻ってはこなかった。信長と違ひ、義元は生まれた時から戦国大名の嫡男だった。信長が傲慢になったのは、将軍を追ひ出した二年後の、長篠の戦ひからだ。義元は、新将軍を立てた時から、傲慢になった。
雪斎が遷化ののちは 義元に無能が目立ち 石原が補佐をするならひと時は旗色よくも傲慢となる

反歌  雪斎は幼き頃に教育を担ふが故に奢ることなし
反歌  石原がゐないに気づき大声で呼ぶも声のみ空しく消える(終)

(12.20追記)第五章 信長の焼き討ち
信長の焼き討ちは、傲慢とは無縁だった。比叡山へは、敵側と組まないやうに何回も説得したが応じないため、焼き討ちにした。寺の焼き討ち自体は、多くの武将が行った。信長がことさら大袈裟に云はれるのは、秀吉や家康の策略だらう。秀吉は、信長の切支丹偏重を変へたかったし、家康はそれを徹底したかった。家康は、天台宗の天海を相談役として迎へ入れたことも大きい。
比叡山の焼き討ちは、近年の遺跡調査で、小規模だったとする説が有力になった。
それにも関はらず、この短編小説では、信長の悪行第一に焼き討ちを挙げた。本当は、切支丹偏重を挙げるべきだが、西洋文明を批判するときにわざわざキリスト教を敵に回すことはない。もう一つ信長の悪行に、傲慢な振る舞ひがある。しかしこれは、読者の印象が薄い。
信長の悪行に、一向宗の皆殺しがある。これは、釈放されてもまた一向宗軍に加はるためだ。釈放されたらおとなしくすることが礼儀だ。

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