三千四十(うた)短編物語(明智光秀は死なず)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月十五日(月)
第一章 小田原へ
本能寺の変のあと、秀吉の戻る早さは尋常ではなかった。しかも明智光秀を破った後に、光秀が逃げるところを殺すやうに、手配までしてあった。秀吉の準備を知った光秀は、山崎の合戦後に裏を掻き、秀吉の刺客を逃れた。そして小田原へ行った。
事の経緯を、秀吉を除く織田家の重臣全員に送った。そのため、秀吉の地位は大きく下がった。柴田勝家が織田家の中心になった。
第二章 小田原攻めを逃れる
織田家はどうにかまとまり、小田原攻めを開始した。北条の重臣たちが、小田原城は難攻不落だと豪語する中で、居候の光秀が、それは攻めて来た時に、織田家の本拠を攻撃したときだけだと説得した。そして、足利義昭のゐる毛利家と攻守同盟を結んだ。
織田が毛利を攻めるときは、北条が織田の本拠を突く。織田が北条を攻める時は、毛利が織田の本拠を突く。この同盟は効果を発揮した。とは云へ、伊達が奥州を統一した。そこで、将軍と、信長亡き織田家を和解させ、京都に幕府を再建した。将軍は十五代を名乗り続けた。
管領は、毛利、織田、北条が、交代で勤めることになった。
第三章 奥州征伐
伊達は、幕府が成立した後も領地獲得を止めないので、幕府軍はまづ上杉を攻めた。後継争ひで弱体化した上杉に対しては、家臣に至るまで領地継続を許さずすべてを没収し、領地外へ追放した。藩主は、養祖父殺害の不忠者として、獄門に処した。伊達への見せつけである。そのため、伊達は慌てて幕府に帰順した。
ところが、私闘禁止後に獲得した領地の返還を巡って、管領だった北条と、伊達の間で、戦が始まった。伊達の勢力を削ぎたい北条と、北条の幕府内の影響力を削ぎたい足利、織田、毛利の思惑があり、幕府は北条に援軍を出さなかった。
やがて、織田が足利、毛利に根回しの上で、北条を攻めた。そして北条は滅んだ。終はってみれば、光秀が殺害された後の豊臣政権の更に後の徳川政権に似た形態になった。北条が滅んだのは、新興大名に無理があったのだらう。もし光成があのとき亡くなり秀吉が権力を握ったら、豊臣家も同じ運命だった。
突然の大名家には無理がある 主家の乗っ取り裏切や 過重労働使ひ捨てまで
反歌
現在も急成長し大企業途上その後も問題起きる
朝鮮出兵や、関ヶ原の合戦が無い分、農民が喜んだ。当時の足軽は、農民が年貢免除や出兵手当と引き換へに務めることが多かった為だ。刀狩が無かったことも、農民が喜んだ。いざとなれば、領主に抵抗することも可能だ。専任の足軽がゐないため、年貢が軽いことも喜んだ。
日本全体では、秀吉、家康と、変な連中が出て来ないことを、皆が喜んだ。
権力を握る前には人たらし良き意味にても 関白になるの後には我が儘のし放題にて悪評垂らす
反歌
人たらし良きと悪きと二つありみつ目の意味は悪評垂らし(終)
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