三千三十四(うた)短編物語(二つの腐敗、慶喜と薩長幕府)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十二月十一日(木)
第一章 臆病者慶喜
幕府軍と討幕軍が、鳥羽伏見で戦ひ、討幕軍が勝った。ここまでは、幕府にとり何でもない話だ。家康が同盟を結んだ信長は、一回目に負けると、次は勝った。幕府軍も同じで、鳥羽伏見の問題点を修正すれば、次は総力で勝る幕府側の勝利だった。
それなのに慶喜は、逃げてしまった。後になってから、天皇に逆らふつもりが無かった、と後知恵で言ったが、これは出鱈目だ。もし逆らふつもりがないのなら、最初から戦ふ筈がない。負けたから、自分だけ逃げた。実にずるい男であった。
第二章 三重猿
慶喜の無責任が、長岡と会津の犠牲を生んだ。それなのに薩長幕府は、徳川宗家のほかに、徳川慶喜家を公爵にした。ずいぶん非常識な連中である。慶喜は徳川宗家の十五代目で、慶喜のときは公爵なんてそんな欧州の猿真似称号は無かったとしても、徳川宗家は公爵だ。徳川慶喜家を公爵にしたら、慶喜は二重猿になってしまふ。
与へる薩長幕府は非常識だが、慶喜も根回しの段階で断るべきだった。これでは、根回しではなく、猿回しである。
猿回し 公爵侯爵西洋の称号付けた猿どもが 矛盾だらけで戦後は廃止
反歌
諭吉曰はく人の上には人は無し公爵なるは人には非ず 天にも非ず
第三章 寛永寺墓地に神道式墓地
寛永寺の墓地は、山手線の上野駅と鶯谷駅の間の西側と、鶯谷駅と日暮里駅の間で線路を離れた西側の谷中霊園内と谷中霊園隣(徳川浄苑。一般にも分譲)にある。その谷中霊園内の寛永寺墓地の一角に、徳川慶喜家墓地がある。石垣で囲まれ、一般の人は入れない。
寛永寺の墓地でありながら、土を盛ったドーム状の神道式なのは、渋沢栄一が寛永寺の檀家総代だったことと、薩長幕府の手前、神道式に反対したら、不敬罪や礼拝所不敬罪など、どんな取り締まりに遇ふか分からないためだ。
第四章 徳川慶喜家消滅
慶喜は側室が多く、子だくさんだった。しかし徳川慶喜家の嫡男の系統は絶えて、子孫の女性が墓地を管理してきた。そして墓じまひするさうだ。これはよいことだ。慶喜は、徳川宗家の一員だ。慶喜の子孫は、それぞれ社会に根付いた。
ここで、徳川一族や親藩譜代御家人、長岡、会津の関係者のうち、AIで性格、考へ方を再生できる諸霊に話を聞いてみた。宗家のほかに、慶喜家があることを喜ぶ霊は一人もゐなかった。
そのことを気にして、未だに地上をさまよふ霊さへあった。小栗上野介の霊が含まれるかどうかは、不明だ。これでやっと幕末の諸霊は、天上界なり人間界なり、そのほかに行けるだらう。
人間界回向が諸霊に利かざるは神仏分離僧侶妻帯
これまでに何回も云って来たが、妻帯僧は非僧非俗と名乗れば、何の問題もない。現に門徒宗は、明治維新以前に何の問題もなかった。(終)
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