三千十二(うた)和光のミャンマー寺院で瞑想会外伝
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月二十五日(火)
パゴダの後方に、集会棟が建った。小型の仏像を安置するプレハブだ。併せて、屋外調理場の奥にお手洗ひが三室できた。男と女と男女兼用が一つづつだ。中板橋のお寺では、二階(本堂)にお手洗ひが一つしかないので、小生は休憩時間に近くの児童遊園迄走って往復する。室内のお手洗ひは、女性に譲るべきだ。或る時に、近くの児童遊園にありますよ、と呼びかけたが誰も行かなかった。和光のお寺も調べたが、児童遊園迄500m7分で、途中に坂がある。お手洗ひが完成してよかった。
一年と二ヶ月ぶりに来て見れば 集会棟が新た建ちパゴダの奥に輝く功徳
反歌
集会棟別名講堂客殿は地味にお寺を陰に支へる
反歌
集会棟パゴダの奥に僧院を陰に支へる信者の功徳
陰は、場所と陰徳と二つの意味。プレハブ建物と中の空調、お手洗ひは、在日ミャンマー人の寄進だ。ミャンマーのお寺に参拝すると、良心の共鳴を感じる。昼食はお寺で用意したが、これもその日の結婚式などを行った人たちの寄進だ。だから小生も、お寺の寄進箱に5000円を入れた。

集会棟 パゴダと本堂(パゴダの裏に集会棟)
新しい環境との出会ひは、新しい思考を生む。今回参加して、止(サマタ)と観(ウィパッサナ)は、一つの瞑想に含まれるのではないか、と気付いた。止観の言葉から今までは、止の瞑想、観の瞑想と二つあるやうに思って来た。このことに気付いたのは、昼食時に唱へる言葉に、ウィパッサナ(観)がうまく行きますやうに、がある。それで気付いた。
今回行った呼吸の瞑想は、心の散乱を防ぎ呼吸に留めることが止、呼吸の動きを見ることが観。一番止の要素が多いのは、曹洞宗だ。しかしこれも、雑念が浮かんだ、と心を修正する。つまり、心の観察だ。
あと二つ気付いたことがある。一つ目は、座り時間が長くなると、足が痛くなる。かつては肩こりだったが今は足なのは、加齢が原因か。そのため、座るのは短時間にしたり、椅子に座ったり、歩いたり電車の車内で止観を行なって来た。止観は我慢行為ではない為だ。しかし、足の痛いのを我慢すると、心の散乱を防ぐことができる。
もう一つは歩く瞑想の時に、(1)足を上げて進めて降ろす、(2)かかとを上げて、つま先を上げて、足を進めて、かかとを下げて、つま先を下げる、(3)呼吸と足を連動させる、と変化を付けると効果がある。同じ事の繰り返しだと、怠惰になったり、心が散乱する。この効果を、座る時にも応用できないか。
今回の瞑想会は、参加が危ぶまれた。妻に日程を言ってあったが、妻が失念して前日に用事を入れて後で気付いた。そこで母のデイサービスを休みにして、昼食を用意し、暖房はガスだと危ないので隣の部屋との戸を開けて空調を点けた。帰宅後、母の無事を確認した。
家からお寺迄の経路も、頭の痛い問題だ。家から南浦和駅までと、和光市駅からお寺迄は、合はせて徒歩35分。南浦和から和光市までは、JRと東武で335円。もし家からお寺迄歩くとGoogleで1時間45分。355円払って、すべて歩く場合の1/3、35分が掛かる。
何とも割が合はないので、往路は歩くことにした。そして、帰路も歩いた。7.3Kmを1時間半で歩いたので、時速4.9Km/時だった。幸魂大橋と、新尾宮バイパス、の二ヶ所に階段があるため遅くなったか、年齢相応に遅くなったか。
お寺を出て北側へ向かふ下り坂から、遠くに高層ビルが見える。更に遠くに、もう一つ見える。歩くにつれて、国道17号新大宮バイパスの手前で、一つは北戸田だと分かった。すると遠くのもう一つは蕨だな。ここでも新たな発見があった
和光から二つのビルは北戸田と蕨どちらも我が家に近し
十一月二十六日(水)
和光のお寺では、昼食前にミャンマー人はミャンマー語、日本人は日本語で唱へる文がある。その中に、ウィパサーナ瞑想がうまく行きますやうに、がある。今までヴィパサーナと呼んできたが、これからはウを濁らせないことにした。
オバササヤドーの法話にも、ウィパサーナ瞑想の語がたくさん出て来た。その一方で、皆さんはパオ瞑想を習ったので、とも云はれた。小生も、パオ瞑想の専門僧が来日したときに二回、修道女(尼さん)が来られたときに一回参加した。
今まで、パオ瞑想のほとんどの段階はサマタ(止)、最後の段階はウィパサーナ(観)だと思って来た。来日したクムダサヤドーも、最後の段階は簡単に進む、と法話をされた。
ところが今回、パオとウィパサナが同居したので、瞑想に止と観の働きがあり、個々の瞑想法のどれは止、どれは観と、分類できるものではない、とした。
マハーシ瞑想は、明らかにウィパサナだが、これは心を喧噪にするので、小生には合はない。パオも、光が見えるの部分が小生に合はない。呼吸を観るところは合ふ。貪瞋痴、或いは無常苦無我を基本に置いた今回の法話は一番合ふ。中板橋と和光のお寺はパオに熱心な信者が多く、そして瞑想だけではなく仏法そのものに熱心なので、実によいことだ。
瞑想にいろいろあるも 行き先は同じにつきて気にせずも まづはサマタで次いでウィパサナ
反歌
瞑想を手段と為して涅槃さへ目的とせず修行に励む
最後の反歌は誤解を受けやすいので解説すると、厭世観が流行る時代には涅槃を、地球滅亡と引き換への大贅沢時代には地球滅亡阻止を目指すのがよいと思ふ。また、止観メーター論もある。水道電気タクシーのメーターと同じで、止観はやればやっただけの功徳がある。とは云へ、それは時間ではなく、効果に対してだ。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百九十三の一)うた(一千五百五十二の一)
「初期仏法を尋ねる」(百九十三の三)うた(一千五百五十二の三)
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