三千八(うた)短編物語「謙信急死せず」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月二十二日(土)
第一章 謙信安土城を奇襲
謙信が急死しなかったら、どうなっただらうか。謙信の特長は戦術に優れ、戦略に劣る。だから信長と対戦するにしても、加賀で少しづつ占領地域を拡大するのではなく、京都を目指すと見せかけて、信長軍が謙信軍と対戦するために出払った安土を急襲し、市街を焼き払った。
信長がすべきは、謙信の小田原城攻めの失敗を参考に、安土城へ戻り近くの山へ布陣する謙信と睨み合ふことだった。ところが楽市を壊された信長は激怒し、謙信軍に攻撃を掛けた。
これは謙信の作戦だった。信長を背後からも攻めて、信長軍は大混乱に陥った。そして信長は討死した。予想以上の戦果に、謙信を始め皆が、大いに酒を飲んだ。

第二章 明智光秀の逆襲
ところが明智光秀隊が、真夜中に謙信軍を襲った。これは予想外だった。これほど近くにゐるなら、信長軍が負ける前に応援に来る筈だ。もしや、光秀はわざと信長を見殺しにしたのではないか。しかし、そのやうな事はあり得ない。意識が遠のくなかで、謙信の頭の中をまとまらない考へがぐるぐると回り、すぐに消えた。
実は長篠の戦ひのあと、信長は尊大になり、些細なことで怒鳴り散らすやうになった。部将たちの心は信長から離れた。しかしこのことは、他の戦国大名たちが知る筈もなかった。
信長が強大なのは各部将 大名並みの実力を持つも一たび背くとき 異端児つひに唯物論に

反歌  各部将背くは主君唯物論西洋かぶれ心が狂ふ

第三章 短期政権
光秀は主君の仇を討ったので、織田家嫡男信忠から宿老筆頭に任命された。これを面白く思はない秀吉が、自分も信長を見捨てたばかりか死んだときは大喜びしたことを棚に上げ、光秀は信長を見殺しにした、と信忠周辺に吹き込んだ。
やがて、光秀と元の宿老筆頭の柴田勝家が戦闘になり、柴田が勝利した途端、秀吉が柴田軍を攻撃した。ところが柴田は、このことを予め予知してゐた。信忠から、光秀批判は秀吉に吹き込まれたことを柴田に話したからだった。そして秀吉は滅んだ。
信忠は、父信長の失敗を学び、宿老たちの意見を尊重した。織田家の支配地域は、近畿と美濃に留まった。長篠の戦ひに敗れたとは云へ、武田軍は強大だった。謙信が討死したとは云へ、二人の養子は関東管領と越後国守を分け合った。

第三章 征夷大将軍帰京
足利義昭は、信長から京都を追放され、幕府は滅んたが、征夷大将軍の地位を失ってはゐなかった。毛利輝元の居候として過ごすうちに、織田家の弱体化を見て、周辺の大名たちに織田家追放の文書を出し続け、やがて毛利輝元を総大将に織田家を近畿から追放し、尾張の小大名に戻した。美濃は、武田と上杉が半分づつ領有した。
幕府は京都へ再興したが、それほど力がある訳ではなかった。しかし大名間の争ひが起きたときに、仲介役として存在した。仲介役が不在の戦国時代が、どれほど悲惨なものだったか、皆が納得したからであった。
戦の世長く続くと人々は平和を求め一つに集ふ
(終)

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