d)4h@y 将軍公選制、幕府を京都へ


二千九百九十二(うた)短編物語「将軍公選制、幕府を京都へ」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十三日(木)
第一章 将軍公選制
七代将軍が亡くなり、血筋が絶えた。史実では紀州藩主が跡を継ぐが、それが幕府滅亡の原因になった。そのことに気付いた或る奉行が老中に進言し、それが採用された。
その内容は、将軍を御三家のなかから公選することだ。今までの制度だと、尾張にせよ紀州にせよ将軍を継げばその子孫が世襲する。それでは将軍になれなかった家中から恨みを買ふ。それを避けるため、代が代はる毎に公選した。
将軍を公選するは御三家か または親藩含めるか 更に譜代を入れるのか 理想は外様合はせて選挙

反歌  農民や町人までを含めるに寺小屋及び寺が必要
幕府の譜代大名と旗本にとっても、新将軍とともにだれが来るか分からない。家老のなかには一万石以上の者もゐるだらう。御三家による公選にすれば、自分たちの既得権が守られる。あっと云ふ間に決まった。

第二章 幕府を京都へ
将軍公選制が決まると、もう一つ提案が出た。御三家出身の将軍は、子や孫は御三家のままだ。つまり将軍は江戸と、尾張または紀州の二ヶ所に城を持つことになる。それなら江戸城は広すぎる。この際、幕府を京都に移すことになった。
江戸より北は、上野、下野、常陸、陸奥、出羽しかない。陸奥を分割して陸奥、陸中、陸前、岩代、磐城に、出羽が分割されて羽前、羽後になるのは、遥か先の明治時代である。
つまり江戸は、東に片寄り過ぎた。西国大名にとり、江戸までの参勤交代は苦役に等しかった。そして、朝廷が京都にあることは、不安定の原因になる。
幕府を都とは別の場所に設ける理由は、武士の貴族化を防ぐためだ。しかし過去に、その例は鎌倉幕府しかなく、しかも三代で源氏が滅びた。あとは京都から公家や皇子が将軍に向ひ入れられたので、京都とは一体だった。
それを思へば、幕府の移転はよい決断だった。

第三章 水戸徳川家が江戸へ
江戸城は、新たに水戸家が移転した。これで、尾張、紀州、江戸の三体制で、幕府を支へることになった。そして、江戸も被公選権を得た。これは盤石な制度に思はれた。将来、外国からの圧力が加はっても、西国大名に反乱は起きない。
ところが奥州と関東で一揆が起こり、その鎮圧を巡って大名どほしの衝突が発生し、収まらない状態が続いた。室町幕府の崩壊は、応仁の乱が原因と云はれたが、実際はその前に鎌倉公方と関東管領の争ひにより、鎌倉公方が断絶する事件が起きた。その後、幕府から任命された新しい鎌倉公方は関東へ入れず、伊豆の堀越に留まった。その後、幕府との和解により関東へ入るものの、下総の古河へ行き古河公方と呼ばれた。
関東に公方や管領はゐないが、戦乱が発生した。そしてそれが全国に飛び火し、徳川幕府は滅亡した。鎌倉幕府を滅ぼしたのは、足利と新田。室町幕府を滅ぼしたのは、鎌倉公方と関東管領。今回も、関東が鬼門になった。
西洋の野蛮列強仲間入り しかし或る時戦へと 敗北するは東京幕府

反歌  またしても関東鬼門敗戦後独立できぬ東京幕府(終)

メニューへ戻る うた(一千五百三十一)へ うた(一千五百三十三)へ