二千九百八十六(うた)1.準僧侶は仕事を持つとよい、2.白山神社
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月十日(月)
妻帯した僧を、これまでも準僧侶と呼んで来た。だからと云って、準僧侶を軽んじたりはしない。僧侶と同じに扱って来た。福性寺は、住職が医師で、1976年5月埼玉県立がんセンターに勤務し、1991年の東京都老人医療センターからは、老人医療に携はって来られた。仮にその五年後まで勤めたとして、定年後に住職になられたのであらう。
副住職も医師、とホームページに書かれてゐる。そして副住職は無給で寺務を行なふとある。
この記事を読んで、準僧侶は職業を持つべきだ、と思った。信者も熱心な人は、職業を持ちながら宗教活動をする。僧侶も同じである。思へば昭和の末あたりまでは、僧侶が学校の教師を兼ねたり、役場に勤めるのは、よくある話だった。
独身僧が寺に住み込むのなら、それほど経費は掛からない。しかし妻子の生活費まで負担するとなると、信徒の側の負担が大きい。奥さんが働きに出てもよい。
準僧侶普段は仕事をするなかで 寺の朝夕お勤めと葬式などをこなすのは 尊きことに神仏の加護

反歌  維新以後都合の良しと悪しあり片方のみは偏りを生む

お寺の前側に、白山神社がある。江戸時代までは、福性寺持ちだったのだらう。ここの白山神社は、福性寺の前に広がり、恵まれた場所にある。白山神社は別だが、世間一般の神社は神主が「食はん主」と呼ばれるさうだ。だから神主は、その多くが別の仕事を持ってゐる。これはよいことである。
神社の経営が厳しく、神職を置けない場合に、寺の住職が神社の仕事を引き受ける方法がある。江戸時代までは、僧侶が神社の仕事もするか、或いは僧侶の指揮下に神職がゐたのだから、宗教上は何の問題も無い。法律上は別の宗教法人なことと、都道府県神社庁が資格のある神職しか代表役員として受け付けない、と言ひ出すかも知れないが。
明治維新の際に、薩長幕府はとんでもないことをした。都道府県神社庁で思ふのは、昔の神社は仏法が日本へ入る前にも、そのやうな組織はなかった。仏法が入った後にも、神仏習合した後にも、なかった。都道府県神社庁と、神社本庁は、廃止したほうがよくないか。
近年は、神社本庁を巡る訴訟沙汰が起きたし、富岡八幡では神主の地位を巡って神職が別の神職を殺す事件も起きた。神や人は生命だ。例へば、親を拝んでも何の力にもならない。同じやうに、死後に神社を作っても何の力にもなってはくれない。吉田松陰を祭った松陰神社、東郷平八郎を祭った東郷神社、乃木希典を祭った乃木神社、等々。中には、悪い心を持つ神々もゐるだらう。
さういふ神々を救ふのが神仏習合だった。それなのに神仏を分離したら、残るのは人間世界と変はらない神々だ。
神々は人と変はらぬ心あり仏の法で 貪瞋痴超えて役立つ世と人のため

反歌  神々は先の戦で働かず仏を分けて力を出せず(終)

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